2021年7月13日(火)の手紙

2021年7月13日(火)


『神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。』コリント人への手紙第二3章6節


コリント教会へ伝道したパウロの悩みの一つは、彼の伝えた福音を彼らがあまりに安易に受け取っていたところにあった。

人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による、というパウロの信仰は、彼が律法に熱心に励んだ結果生まれてきたもので、そこには血のにじむような精進があった。

ボンヘッファーが「安価な恩寵」と言っているが、いくら主の十字架があったとしても、それにこたえないまま、恵みだけ受け取ろうとしたら何になるだろうか。

親鷺は、「南無阿弥陀仏の六文字を唱うることによりて、阿弥陀如来の大慈悲に縋り奉る」と人々に念仏を教えたが、この念仏が口先だけになってしまって仏教は堕落した、と言う人がいる。
絶対恩寵を説く宗教の陥りやすい危険である。

いま一つパウロを悩ませたものは、ユダヤ教的クリスチャンであった。
彼らは、パウロの福音は律法を否定するものだとし、神の前にゆるされざる者だと信じたのである。
だから、1節にある推薦状、エルサレム教会からのお墨つきを求めたのである。

この両派の人に対して、パウロは「わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである」と言う。
私の信仰の真偽を示してくれるのは、ほかでもない彼らなのだ。
彼らがキリストの推薦状なのだ。

キリストの推薦状だけが私に信任を与える。
その文字もキリストご自身が彼らの心に書かれたではないか。
パウロはこのように宣言する。

「こうした確信を……」とパウロは続ける。

信仰の中には感情もある。
しかし、感情が強くなりすぎると、信仰が粉飾され、まちがってくることがある。

非常に燃やされて、聖書を読むのがうれしくてたまらないことがあるかと思うと、うとましい思いと闘いつつ読むときもある。
こうも上下のはげしい人間の思いに信仰の確信を置いているからだめなのだ、とパウロは言うのである。

私たちの信仰は、自分の足元だけを見ると、海上のペテロが沈みそうになったように、沈むのである。
キリストにより確信を抱いてこそ、とてもできそうにないことができる。

主は、十字架を負って、わたしに従ってきなさいと言われた。
しかし、そこでがんばって励んで負っていこうとするのは一種の自虐である。

主イエスは、十字架と共に、必ず負う力も備えてくださるのであり、張りきらなくても、負ってみれば軽いのである。

「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである」とある。
自分が負っているのだ、負っているのだと思っていると、すでに旧約の律法の世界にもどり、新しい契約の恵みから退いている。

「力を与えて」とは、未来の希望ではなく、神が付与されたという既成の事実である。
この信仰に立つとき、私たちは喜び勇んで十字架を負っていけるのである。

God Bless You!!


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