2021年7月1日(木)の手紙

2021年7月1日(木)


『正しい生活を送って、余念なく主に奉仕させたいからである。』コリント人への手紙7章35節


第7章は結婚問題について語られている。
新約聖書の中で、結婚についてこれほどまで深く、具体的な指示を与えているものはないだろう。

しかし、ここでコリント教会と私たちとの時間的・空間的な差を考えずに、それを絶対的なものとして受け取ると、かえってまちがってしまう。
さらに、パウロという歴史の中で生きた人間の語っているものであるから、それは相対的なものであることを忘れてはならない。

彼自身も13節で「これを言うのは、主ではなく、わたしである」と言っている。
神の言葉と人間の言葉を混同してはならない。

たとえば、離婚の問題では、パウロは厳然と神の御心として語っている。
すなわち「結婚している者たちに命じる。
命じるのは、わたしではなく主であるが、妻は夫から別れてはいけない」とある。

しかし、未信者との結婚については、起きてくるさまざまな問題に対して、彼自身の立場で、いかになすべきかを告げるのである。

7章を通読すると、パウロは結婚をさほど重んじなかったのではないか、方便ぐらいにしか考えなかったのではないかと感じる。
情欲を抑えられなかったら結婚せよ、抑えられる人はできるだけしないほうがいい、というように読み取れるが、結婚にはもっと積極的な意味があるのではないかとの疑問もわいてくる。

パウロは、8節にあるように独身者であった。
そこにパウロの限界、なにかとわからない面、制約もあったのではないか。

しかし、ここで彼の言おうとしているのは、結婚するにしても、しないにしても、神を賛美することを忘れてはいけないということなのである。

これがいちばん明らかにされるのが、未婚の人に与えた32節から35節までの言葉で、「結婚している男子はこの世のことに心をくばって、どうかして妻を喜ばせようとして、その心が分れるのである」とある。

まことに痛いところを突いている。

「主人がそれをしたらいかんと言いますので」とか、「家内が……·なので」とか、「毎日曜教会へ来ていたら、子どもの世話ができませんし、もし非行にでも走ったら……」等々、いくらでも思い当たる。

パウロはこのような私たちに、何のために結婚しているのか、何のための人生なのかと、いま一度問い直してくるのである。
いちばん大事なものを、それほどでもないものの犠牲にしてはいまいかと問うているのである。

結婚とは、一人で神を賛美していた人が、二人で賛美するようになることである。
子どもが生まれることも同じで、親子で神を賛美するようになること、これが信仰における子どもの誕生の大きな目的ではないだろうか。

パウロは、非常に具体的な結婚、人間の欲望の問題を取り上げながら、それらがすべて神の賛美のために集約されていくことを告げるのである。

God Bless You!!


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