2021年6月8日(火)の手紙

2021年6月8日(火)


『はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。』使徒行伝28章31節


パウロが天からの声を聞いたとおり、パウロたち一行はだれ一人そこなわれることなく、マルタ島に上陸した。
島の人々もあたたかく彼らを迎えてくれた。

ところがそこで、パウロがまむしにかまれるという不慮の災難が起こる。
人々はパウロを悪い者だと思ったが、パウロが何の害も受けなかったため、評価を変えて、パウロを神様だと言った。

パウロは、暴風にあい、望みを断たれ、まむしにかまれた。
そういう状況の中でそのつど、神の栄光をあらわした。

私たちは順境にいると神の栄光をあらわしていると考え、不幸になると神の栄光ではないように考えやすい。
しかしパウロは、人生の限界状況とも言える状態の中でも、神の栄光をあらわした。

昼に神の栄光をあらわすとともに、夜も神の栄光をあらわすことができる。
月は、昼はぼんやりしているが、夜は美しく輝いて、太陽とは違った光で私たちを慰めてくれる。

同じように、どんなときでも神を信じていくとき、私たちもそれを神の栄光をあらわす時とすることができる。
本来、人間にとってよい時とか、悪い時とかの区別はないのである。

明るい時はもちろん、暗い時も神のご支配のもとにあるからである。

「主なる神はこう言われる、『見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。
これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。
信ずる者はあわてることはない」とイザヤ書にある。

神が一つのかしら石をすえてくださったと信じる者は、どんな状態になってもあわてて自分を見失うことはない。
神の愛が生活の基盤となっているので、その上で落ち着いて、ここにも神の御心があると信じるからである。

夜も神の栄光のあらわれる時であると、しっかり信じていきたい。

神は私たちにいろいろな約束をしていてくださる。
その実現の過程は、私たちにはわからない。
私たちの予想どおりではない。

たいせつなのは神の御心の成就であって、私たちの予想の実現ではない。
そのことを見きわめて、どんな状況でも、生ける神を信じて従うことがたいせつである。

あせったり、不安になってはならない。
神はご計画どおりに約束を成就なさるのである。

パウロが「はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた」という言葉で使徒行伝は終わる。

しかし、これには続きがあるはずである。
これで終わりだとしたら、使徒行伝は中途半端なものとなってしまう。
使徒行伝が終わっていないということは、次のページを私たちが書いていくのだと考えさせる。

その意味で、日の当たるとき、条件のととのったときだけでなく、どんな暗闇のときにも、神の真実の実現を信じ抜いて、その場その場で、神の栄光をあらわすことを祈って進みたい。

God Bless You!!


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