2021年6月6日(日)の手紙

2021年6月6日(日)


『その時へブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました……。』使徒行伝26章14節


この章には、フェストの着任に敬意をあらわすために来たアグリッパ王へのパウロの弁明が記されている。

パウロは自分が、「神がわたしたちの先祖に約束なさった希望をいだいているために、裁判を受けている」のだと言った。

自分がまちがっているのでこのようになったのではなく、神への熱心な信仰生活の中でキリストが自分に出会い、そのことが自分を今日のように変えたと話したのである。

キリスト教信仰とは、パウロが語るように、私たちのほうで判断したり、他宗教よりすぐれていると感じて自分の力で信者になるものではない。
神のほうから私に働きかけてくださった、という神の働きの事実によって、自分が変えられていくものなのである。

「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と語りかけたキリストに出会って、パウロはキリスト信者になった。
その意味で、イエス・キリストとの出会い、イエス・キリストの父なる神との出会いというものが、キリスト教においては重要な出来事なのである。

聖書には、神の言葉が人に臨むとき、その人の名を呼ぶことが記されている。
神の言葉は個人に対して語られる。

もちろん聖書は全世界の人にあてて書かれているのであり、個人のために書かれたものではない。
しかしその一般に向けて書かれている言葉を、私に対して書かれた言葉として受け止めるのが、聖書の読み方である。

聖書の言葉を客観的に研究するのも意味のあることであり、そういう学びがないと、聖書を誤解することがある。
しかし、調べたら聖書がわかるかというと、決してそうではない。
聖書を調べることは、聖書を理解するための一つの予備的なことである。

自分に語られた言葉として聖書を読むとき、私たちは、その神の言葉になかなかハイと言って従えない自分に気づき、自分の神に対する反逆性、罪がわかってくる。
このことがないなら、私たちの罪意識というものは、感傷的な、あるいは倫理的なもので終わってしまう。

罪とは、神の言葉を聞き、それに従えないところに実感されるものである。
罪は神の要求に反逆することである。
それゆえ罪は、神の言葉を自分に決断を迫る言葉として聞くところでのみわかるものなのである。

パウロは逃げも隠れもできない神の言葉で打ちのめされ、その彼をゆるして、立ち上がらせるキリストを知った。
ゆるされるべくもない、救われるべくもない自分を、ご自身の血潮でゆるし、救ってくださるキリストがわかった。

この福音が彼の信仰の基盤となった。
と同時に、この福音を伝えねばならぬという使命感が全身にわき上がるのを感じたに相違ない。

「わたしのようになってもらいたい」とパウロは証しした。
この言葉を神の私へのメッセージとして受け止めよう。

God Bless You!!


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