2021年6月4日(金)の手紙

2021年6月4日(金)


『さて、この男は、疫病のような人間で……。』使徒行伝24章5節


ユダヤ人がパウロを殺そうと企てた事件は、神の介入によって失敗に終わり、パウロはカイザリヤに着いた。
しかしユダヤ人たちはそれであきらめたわけではなく、弁護人まで連れて総督に訴え出た。

ルターは、「悪魔は君たちほど怠け者でもなければ、淡泊でもない」と手紙に書いた。
私たちに敵対し、陥れようとする悪魔は、私たちのような怠け者ではないというのである。

私たちはすぐ怠け、あっさりあきらめる。
しかし悪魔はどこまでも食いついてくる。
カイザリヤまで弁護人を連れて訴えに来たユダヤ人も、神に忠実に生きている一人の人間を葬るために、どこまでも全力を傾けた。

パウロの側から言えば、神に忠実に生きるがゆえに、憎まれ、ののしられ、苦しめられたのである。

私たちは人にののしられ、変わり者と呼ばれることを嫌う。
しかし神に忠実に生きたとき、イエスもパウロものろわれたのである。
そのあとに続こうとするのであるならば、称賛や歓呼によって迎えられるはずがない。

一人の人が汗を流さなければ行けなかった道は、私たちも汗を流すのでなければ行くことができない。

その意味で「この男は、疫病のような人間で」と言ったテルトロの言葉はおもしろい。
疫病は、原語ではペストである。
非常に恐ろしい病気である。
パウロはそれほど恐れられていたのである。

もちろん、人からいやがられることに意味があるのではない。
しかし、イエスが歩み、パウロが続き、多くの信仰の先人たちがたどった道が、ペストのようだと言われる道であるなら、私たちもそのような汚名を受けるものと覚悟しなければならない。

いまの平和な生活を守ろうと考えたら、とうてい十字架を負って主に従うことはできない。
そこでは信仰生活は私たちを苦しめたり、問題の渦中に投げ込むものでしかない。

イエスは嫁と姑、娘と母とが分かたれると言われた。
ペストのように忌み嫌われることが起こるということである。

そうであるならば、平穏な生活にしがみつこうとする者であってはならない。
むしろ私たちが真理に立つ以上、いまの平穏な生活がはげしく揺さぶられることを覚悟しなければならない。

今日の私たちの信仰においては、未来の審判ということがあまりにも無視されているのではあるまいか。
キリスト教が現世のこの時だけのもののように説かれている傾向がなきにしもあらずだと思う。

聖書の視点は、この世には終わりがあり、その時には私たちは神の前に立つということである。
このことが私たちの信仰の視点でないと、イエスの言われた十字架の意味も、ほんとうの意味においてわかることにならない。

私たちは神に裁かれるのだということを忘れてはならない。

God Bless You!!


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