2021年6月30日(水)の手紙

2021年6月30日(水)


『あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。』コリント人への手紙第一6章20節


コリントの教会は悪に対する闘いをやめてしまい、お互いに争いを起こした信者が、この世の裁判所へ訴え出るところにまで至ってしまった。

パウロはこれに対し、この世の知恵や力によってではなく、教会内の問題をどうして教会で解決しないのかと問う。
さらに、この世の裁判で白黒をはっきりさせる以前に、訴え合うこと自体が敗北であり、だまされても不義のレッテルをはられても、それでいいではないか、人から悪と決めつけられようとも、神の前でどうかが問題なのだ、と言ったのである。

パウロによってコリント教会の誤りはしだいに明らかにされたが、それでも結婚以外の性関係をなす者がいた。
彼はそれについて12節で、「すべてのことは、わたしに許されている。
しかし、すべてのことが益になるわけではない」と言う。

この「すべて」とは文字どおりあらゆるものである。
キリスト教信仰は、すべてのものからの解放である。
何にもとらわれず、何をしてもよい。
みな許されている。

しかし、すべてが許されているとは、私たちに、これは良いか悪いか、益かどうかをわきまえ知る責任が課せられたことでもある。
自由に任されるとは、実はたいへんむずかしいことなのだ。

クリスチャンは、その生活において、酒もタパコも礼拝の出席も祈りも、献金も聖書を読むことも、すべては自由なのである。
しかし同時に、この自由の中で生活していく私たちを、神はすべてご存じである。
そこに私たちの生活の責任の重さがある。

パウロはこの章で、不品行と自由について語っているが、不品行はそれを禁ずる律法があるからだめだというのではなく、不品行も自由である。
しかし、それをしないところに、あなたがたの神に対する生き方があるのだと言っているのである。

地獄に落ちるのがいやだからとかいう因果応報の世界ではない。
神に対して義理を感じ、クリスチャンだからこうしなければと言っても、神には通じない。
神に喜ばれるには、まず真心がなければならない。
一人子を賜うほど私を愛してくださった神への感謝と喜びこそが大事なのである。

これはだめ、あれもだめではなしに、神に対しての私の真心のあらわれからは、不品行などとてもできないことであり、これが恵みに生かされるということなのである。

私たちは自分の体は自分のものとの考えを捨てなければならない。
自分のためにどれだけの代価が払われたかを思うとき、神にこの体をささげなければと思わざるをえない。

私は、福音があって私の生活があるのだと常に思い、生活している。
イエス・キリストの事実は不変であり、これを繰り返し、繰り返し聞き、日々新しくされていきたい。

God Bless You!!


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