2021年6月3日(木)の手紙

2021年6月3日(木)


『しつかりせよ。あなたは、……ローマでもあかしをしなくてはならない。』使徒行伝23章11節


パウロは、議会を操作しようとしてパリサイ派のような発言をした。
その結果、パリサイ派とサドカイ派は二つに分かれてはげしい論争を始めた。
そしてユダヤ人は、パウロを殺すまでは断食するという決心をして、パウロ殺害の綿密な計画を立てた。

パウロにとってはのがれる道のない状況となった。
そのとき、神が、「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない」と言われるのを聞いた。

ここにパウロのすばらしさがある。
あすの命もわからない危険の只中で、まったく考えられないような、ローマに行くという神の言葉を聞いたのである。

聞いたということは、自分で考えて結論を出したということではない。
神から聞いたと言わずにはおれないことなのである。

人間からは出てこないことを聞いたのである。
そこに信仰の力、信仰の恵みがある。
危急が迫り、じっとしておれないその夜、パウロは地上的な策を考えるのでなく、神の声を聞いた。

聖書に出てくる夜とは、単なる時間的な夜だけでなく、まったく何の望みも持てなくなった状態をも暗示していると思う。
そして聖書は、神の声とか天使の御告げというものが、夜に聞かれることを示している。

アブラハムがイサクをささげよという神の声を聞いたのは夜である。
ヨセフがマリヤを迎え入れなさいと言われ、エジプトに逃げなさいと言われたのも夜である。

心が真っ暗になっている夜に主の声を聞くということは、逆に言えば、夜のやみに支配されないことである。
夜のやみの中でも語っておられる神に耳を傾ける、そのような者だけがイエスを拝することができると思う。

パウロはどんなときでも、真夜中でも神を賛美した。
天を相手に生きていたのである。
これが信仰者である。

16節に「ところが」とある。
使徒たちが一生感命神を信じて生きていくと、必ず障害が起こってくる。
そのとき、無学な普通の人である使徒たちは何の権力も地位もない。
この世の権力とかユダヤ教の祭司の権威は強大で、使徒たちは押しつぶされそうになる。

「ところが」である。
神の介入である。
そしてパウロは安全にローマ軍に守られて、カイザリヤに行くことになる。

私たちは神が天地の創造者、支配者であると信じている。
ならば、私のために神が働くことを期待すべきではない。
私が神のご用をしていくとき、神の御力にふれるのである。

ご自身の声を聞いて従う者のために、神は天も地も用いて御業を進めてくださる。
自分は神のご用をするにふさわしくない、と十分に知りながらも、神がいま用いてくださるのだと聞き従っていくときに、「ところが」という世界が開かれていくのである。

God Bless You!!


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