2021年6月29日(火)の手紙

2021年6月29日(火)


『新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。』コリント人への手紙第一5章7節


コリント教会は、性的にきわめて憂うべき状態にありながら、なんらそれを気にかけてはいなかった。
パウロはこれに対し、怒りと悲しみの警告を発せざるをえなかった。

この世を維持し安定させるための秩序が必要とされるのに、私たちはいつの間にか欲望に重きを置くようになり、その誘惑に引き込まれる。
まさにこれに負けたのがコリント教会だった。

パウロは悲しみ、激しく怒る。
それは教会の前途を危ぶんでの言葉なのだ。

パウロは、このような人との訣別をまずすすめる。
と同時に、この人の肉が滅びても、せめて霊が主の日に救われるようにと祈るのだ。

さらに彼は続ける。
古いパン種の除去と新しいかたまりになることを。
「古いパン種」とは自分の内側の努力のことであり、「新しい粉のかたまり」こそ、聖書が告げる新しい時の始まりである。

主の十字架と復活によって始まった時であり、キリストによる恵みの世界の開始なのである。
人の業でなく、イエス・キリストの業により、私たちが神の前に義とされる世界である。

ローマ人への手紙第6章に「恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。
断じてそうではない。
罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか」とある。

恵みの世界に入れられたとは、古い自分を捨てた、罪の体は死んだということである。
死んだ者が再び罪を犯すことなどありえないというのである。

確かに、肉体を持つ者として私たちは罪を毎日犯している。
これが現実ではある。
しかし、これらの罪はキリストによってすでにその力を失ったのである。

パウロはここから、ただ新しいパンを食べるべきこと、キリストへの信仰によって始まった生活は、純粋で真実なパンになったではないかと叫ぶ。
新しいパンになった自分が、再び肉の捕虜となることはありえないのである。

4章では「さばくな」とあるのが、5章では「さばけ」とあって相矛盾しているように思えるが、「あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか」とあるように、ここで言われているのはキリストに連なる教会員どうしのことである。

歯が痛むときは体全体もまた痛む。
この「痛み」こそが「さばき」なのだ。

私たちはお互いに、キリストの栄光をあらわすための一つ一つの枝なのだから、痛みを持ちつつ互いに交わることが、この裁きなのではないだろうか。

教会にはいろんな人が来る。
問題を感じさせる人もいないではない。

しかし、その人をつまはじきにするだけが裁きではない。
共にいても、その人の行いには合わさない、その行為の誤っていることを愛を持って指摘することが、パウロの言う、内の人たちへの裁きではないだろうか。

God Bless You!!


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