2021年6月23日(水)の手紙

2021年6月23日(水)


『キリストもわたしたちを受けいれて下さったように……。』ローマ人への手紙15章7節


教会の最大の恵みは、弱い人の弱さを担うことである。
教会に行っているから、また教会員だから救われるというようなものではない。
救いは、イエス・キリストのいさおしによる。

キリストに連なるために教会に属しているのであって、そのことにおいてキリストの十字架にあずかるところに、教会のよさがある。

教会の一致、交わりというものは、心を一つにし、声を合わせて、神の恵みのすばらしさを知るところにある。
キリストにある神の恵みを中心とした交わり、そして、みんなが霊的な状態に置かれることがたいせつなのである。

ボンヘッファーが姪の結婚式に獄中から出した手紙に、「キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである」と7節の言葉を引用している。

結婚生活は互いに相手を受け入れることであると言うのである。
受け入れやすいものを受け入れることは、だれにでもできる。
ほんとうに受け入れることのできない人、もし受け入れたら、自分がつぶされてしまうような人を受け入れることは、なかなかできない。

最も親しくあるべき者の間にも、どうしても受け入れられない問題が生じることがある。
しかし、イエスが十字架の死をもって、私たちを受け入れてくださったのであるから、私たちも他の人をそのように受け入れなければならない。

そのためには、キリストによって私が受け入れられたことがどんなに大きく深いものであるか、また厳しいものであるかをよく知らなければならない。
そうでなければ結局、自分の好みに合う者しか受け入れられないということになるだろう。

キリストの十字架が二千年昔の物語としてどんなに詳細に知られていても、私たちの霊的事実として強く迫ってこなければ、私たちの力とはならない。
キリストが私を受け入れてくださったということがどこまで大きな事件になっているか、これが私たちの信仰だと思う。

真珠貝は中に異物が入ると、真珠質を分泌して異物を丸く取り巻いていくという。
まるで異物が入った痛みのために涙を流すかのようだ。
それがあのような光を放つ真珠になる。

人を受け入れることは、それに似ている。
私たちは決して楽に信仰生活を送れるものではない。
キリストにならう生活、十字架を負う生活は、死にもの狂いの生活である。

羽根布団にくるまって天国に行った聖者はいない、とのことわざがあるが、楽しい思いをしながら真珠の美しさを持つことはできない。
相手を受け入れることが、自分にとって死を意味するようなときには、自分が受け入れられるためにキリストが死んでくださったことを思えと、ボンヘッファーは書き送った。

それは私たちにとっても大事なことである。

God Bless You!!


a:37 t:1 y:0