2021年6月22日(火)の手紙

2021年6月22日(火)


『キリストは彼のためにも、死なれたのでてある。』ローマ人への手紙14章15節


第14章では、教会員どうしの問題という、教会の内側のことが取り上げられている。

信仰の弱い人、強い人。
弱い人とは、食物のことや日とかにこだわる人であり、強い人とは、食物や日を問題にしない人のことである。

共にイエス・キリストを信じているのであるが、具体的な生活となると違いが起きてくる。

ローマの教会だけでなく、コリントの教会にもそういう問題があったようであるし、今日の教会においても、そういうことをいろいろ言う人がある。

日本のキリスト教信者の中には、酒もタバコものまないという一つの伝統があったが、酒やタバコをのむ人は信仰の弱い人であると言う人もあるし、いやそうではないと言う人もある。

そういう人に対してパウロは、「神は彼を受けいれてくださったのであるから」と語っている。
仮にどんな人であっても、その人を神が受け入れてくださるということを信じることが、具体的な信仰生活である。

私たちも陥りやすいことであるが、信仰に熱心な人は他人を厳しく裁く面がある。
確かに私たちが突くことがまちがいでない場合もあり、言わなければならない場合もあると思う。
しかしそこでも、そういう人も神は受け入れてくださっているということを忘れてはならない。

「主は彼を立たせることができるからである」とある。

この言葉はすばらしい。
私たちは希望というものがなければ、あの人も神が受け入れてくださっているということをなかなか信じきれない。
神はどんな人でも立たせてくださるという、この主にある希望があるときにはじめて私たちは、あの人も神に受け入れられているのだという心になることができる。

神は死人でもよみがえらせるかたであり、どんなに冷たいかたくなな人でも、神が支配しておられ、神は彼を愛しておられるがゆえに必ず彼を立たせてくださると、神の全能を信じていくことである。

まったく絶望の状態にある人をも神は立たせることができる。
そこに私たちが人に対して、愛を持って手を差し伸べていく余地があるのだ。

「それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。
むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい」。
これがパウロの姿勢である。

「キリストは彼のためにも、死なれたのである」。

この言葉が、私の心がほんとうに開かれる一つの鍵となった。
キリスト教信者は、私のためにイエスが死なれたことを信じ、感謝するが、彼のためにも死なれたということを忘れるのではなかろうか。

私たちがあんな人と思う人のためにも、イエスは死なれたと思うとき、私たちはその人に対して格別の思いを持たざるをえない。
そこに人々に対する思いやりというものが起きてくる。

God Bless You!!


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