2021年6月20日(日)の手紙

2021年6月20日(日)


『あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。』ローマ人への手紙12章1節


パウロの書簡は、最初に教理的なことが記され、後半で、それにもとづいたクリスチャンの生活についてのすすめが記されている。
ローマ人への手紙もそうであって、第12章からは生活のすすめが書かれている。

クリスチャン生活とか、倫理、道徳というものは、それ自体が目的ではなく、信仰からくる実であることを心に留めて、一般の人々と交わらなければならない。

よく信仰を求めてきた人々の中に、あんな人になろうとか、また、キリスト信者になろうと思うが、私はとてもあのようなことはできない、あのようなことをしなければならないなら、キリスト信者にはなれないと言う人がある。

知らず知らずのうちに、そういうことが信仰の目的だと思っているわけである。

日本には勧善懲悪を一つの目的にした宗教がある。
倫理的な面が強調され、修養と信仰とがいっしょになっているようなものもある。

しかしキリスト教は、修養して人間を磨いていくというようなものではない。
砂利はどんなに磨いてもあまり光らない。
そこには限界がある。

1節の「そういうわけで」という言葉は、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされるということで、この言葉は非常に大事なものである。
そのように、クリスチャンの道徳は信仰からくるものである。

パウロは、ここで礼拝について語っている。
「あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」と。

霊的な礼拝とは、ほんとうの信仰の理由にかなった礼拝ということである。
ほんとうの礼拝とは、ささげるものである。
それは、私たちの体、つまり生活、私たちの全部をささげるということである。

感謝献金のときに、「ほんのわずかなものですが、ささげました」とお祈りする人があるが、ほんのわずかでないものをささげればよいのにと私は思うが、謙遜のつもりなのであろう。

しかし神に対して謙遜する必要はない。
正直に言えばよい。
心からささげたものをと言えばよい。
私たちの心は、十分ささげていると思いながら、どこかで現実にはわずかだというようなものが介在しているのではないだろうか。

これだけささげたら惜しいなあと思うほどささげることが生きたささげものだと思う。
自分にとって痛感を感じないようなものは、死んだささげものなのである。

また、礼拝とは、日曜日の礼拝だけではない。
毎日毎日の生活が礼拝である。

では日曜日の礼拝とはいったい何か。
それは学びであり、分かち合いであり、もう一度確信を新しくされて、日ごとの生活としての礼拝がなされていくものである。

だから日曜日の礼拝に根源があるのだ。
そこから毎日の生活が礼拝として生かされていく。
そのためにも、ますますその礼拝が厳格に、しかも霊的に高められ、守られなければならない。

God Bless You!!


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