2021年6月2日(水)の手紙

2021年6月2日(水)


『行きなさい。わたしが、あなたを遠く異邦の民へつかわすのだ。』使徒行伝22章21節


エルサレムで、神が自分の働きを通してなさったことを証ししたパウロであったが、その直後、人間的な工作でユダヤ人たちの敵意をやわらげようとして失敗し、ローマの兵隊たちに救われた。

パウロはそのとき、自分の誤りを認めて悔い改め、群衆に証しすることを願った。

パウロは、殺気立っている群衆に「兄弟たち、父たちよ」と呼びかけた。
自分を殺そうとしている人々に、実に謙遜に、愛に満ちて語りかけている。

これはなかなかできることではない。
しかし悔い改めて神の側に立ったパウロには、群衆の憤りとか殺意とかを超えた平安があった。
私たちもそういうもので生かされたい。

私たちは絶えず人に神経をとがらし、人の言動で心が浮いたり沈んだりしやすい。
言うならば決定権が他人にあって、自分にないのである。
それでは自分が生きていることにはならない。

人々がいろいろなことを言ったりしたりする中で、自分が自身の決定権を持っていないなら、「いつも喜んで、絶えず祈り、すべてのことについて感謝する」ことはできない。

それは強い人間となるということではなく、神の愛に包まれているときにできることである。

パウロはそういう謙遜な思いで、神のふところの中で、微動だにしない落ち着きを持って群衆に語りかけた。
そのとき、殺せと騒いでいた人々は圧倒され、静粛になった。
そこでパウロは語った。

「私はみなさんと同じように神に対して熱心であった。
キリスト信者を迫害することが、神に対する忠実な生き方であると思っていた者である。

しかし、ダマスコ途上で、思いがけなくも、イエスの弟子たちを迫害している私に対して、愛と慈しみを持って、私の罪を背負って近づいてこられたキリスト・イエスに出会った。

そのとき、私は教えられる宗教から出会う宗教へと変えられた。
私を愛していてくださる十字架の主に出会った。

私が考えたり、教えられたりしたのではない。
ご自分から私に近づいてくるキリストに出会ったのだ。
それが私を決定した。

私が異邦人に伝道するのは、私の考えによるのではない。
教えられた宗教ではこうしたことは考えられない。

なぜ私が、神の憐れみの外に立たされている異邦人に救いを宣べ伝えているかというと、私自身が神の憐れみの外にいたのに、その私に近づいてこられたキリストに出会ったからである。

私のような者に神が近づいてくださったと気がついたとき、私は従来救われることがないと信じていた異邦人にも、神の救いが近づいていると悟った。

そのとき異邦人伝道への召しが与えられたのである。
これは私の考えではなく、神の業である」。

これこそが、パウロの宣教の神髄にほかならない。

God Bless You!!


a:38 t:1 y:0