2021年6月18日(金)の手紙

2021年6月18日(金)


『その熱心は深い知識によるものではない。』ローマ人への手紙10章2節


ユダヤ人は、いまでも神に対して非常に熱心な民族である。
たとえば安息日を守るとか、什一献金をするということにおいてもそうである。
しかしパウロは、その熱心さは認めるが、その熱心が深い知識によるかどうかが問題であると言っているのである。

ただ熱心であればよいというものではない。
これはキリスト教信仰と、他の宗教との一つの違いだと思う。

日本のことわざに「いわしの頭も信心から」というのがある。
熱心に拝めば、それが何であろうとかまわないという考え方である。

キリスト教信仰は、熱心であれば神に喜ばれるというものではなく、何にもとづいて熱心であるか、何を熱心に求めていくかということが大事なのである。

たとえば、徹夜し、断食し、何日もこもって祈ったという熱心な人がある。
その場合、あの人は祈りの人だ、熱心な人だと他人は言うし、自分もそう思っているところがあるが、果たしてそういう祈りがキリスト教の祈りであろうか。

神は一人子を賜うほどに私たちを愛してくださっているのであるから、私たちに必要なものを、私たちより先に知っておられる。
そういう神に対して熱心に祈るとは、どういうことなのか。

私の熱心が神を動かすとか、私の熱心が何かを生み出すとすれば、重点が自分になってしまう。
しかし、キリスト教の重点は神にある。
神がこうしてくださったという神の出来事から、私たちの信仰は始まっている。
私の熱心が神を動かすとか、苦行したとかいうことが、私たちの信仰の基盤ではない。

他のだれよりも熱心であるとか、一生懸命奉仕するとかということはもう問題ではない。
私たちは、甲・乙・丙・丁と差をつけられる者ではない。
甲にも丁にもイエスは救い主である。

私は丁であったのに、イエスによって救われるのである。
甲は、あるいは自分の力で救われるかもしれないが、丁はだめなのである。
そういう点では、イエスはほんとうにだめな人のために来られたのである。

私たちがまだ自分の何かに自信を持っていたり、可能性を信じている間は、イエスの十字架を唯一の救いとして受け取ることはできない。
しかし、自分が丁の丁であることを知った者にとっては、この丁にまで及ぶ救いは心からの喜びとなる。
そこにイエス・キリストの十字架にあずかりたいという生活が始まるのである。

私たちの信仰が燃えてこないのは、そういう話を聞かないとか、そういう気持ちにならないとかいうことではなく、私たちがどんな者であるかに気がついていないからである。

そのことに気づくとき、無学で教養もない私のために、神の子イエス・キリストが十字架について死に、よみがえったということが、ほんとうに私に関係のある大きな事件となってくるのだ。

God Bless You!!


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