2021年6月16日(水)の手紙

2021年6月16日(水)


『これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。』ローマ人への手紙8章4節


パウロはダマスコ途上において、なぜあのようにあざやかな回心ができたのだろうか。そ
のことについてはいろいろな説がある。
その一つとして、次のような説明がある。

パウロがキリスト教徒を迫害したのは、律法による行いによって救われようと努力した結果であった。
しかし、そうすればするほど、律法によっては救われない自分に気がつき、自分には救われる何らの資格もないと彼は絶望した。

ダマスコ途上で倒れたことはそのようなパウロの経験を象徴的に語り、そのときはじめて彼は、天からの光、すなわち人が義とされるのは、行いによるのではなく、信仰によるという、きらめくばかりの経験をしたのではないか、というのである。

「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである」。
「子よ、あなたの罪はゆるされた」とはこのことである。

イエスが病人に対し、また罪を犯している者に対して、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と語ったのは、ご自身がその人の命を、罪を支払い、引き受けられたからこそ語りえたのである。
私たちは、イエス・キリストにおいて、罪と死との法則から解放される。

律法だけで人間は、神の義を獲得することができるわけだが、肉の弱さ、それも肉が罪の場所となり、堕落したことによって、律法が無力になってしまった。

もはや人間は、神からの義を与えられない。
そのどうすることもできない私たちに、神はキリストを与え、義としてくださった。
信仰が私たちの可能性に立っているのであれば絶望するよりほかはないが、信仰は神の可能性に立っているのである。

どんな優秀な走り高跳びの選手でも3メートルのバーは越えられない。
しかし、少しも跳べない赤ん坊でも、飛行機に乗れば何千メートルの上空にも上ることができる。
それがキリスト教信仰である。

私たちの人間の力だけでいえば、赤ん坊と変わらない。
しかし、イエス・キリストによって、はじめて可能な世界が与えられる。
それが恩寵なのだ。

10節から12節は、キリストが命の君として罪と死から自由にされたように、私たちも罪と死から自由にされたということである。
私たちは肉に対してではなく、神に対して果たすべき青任があり、それだからこそ神の相続人なのである。

しかし、それは望みとして与えられているものであり、現実と望みとの間にはギャップがある。
そのギャップは、待ち望むことにおいてはじめて越えられていく。

そこにはうめきがある。
しかし、そのところで御霊はとりなしてくださる。
そのゆえに、神を愛する者は、すべてのことが相働いて益となることを知り、神に召された者は、神の恵みによって、栄光へと導かれていくのである。

God Bless You!!


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