2021年6月14日(月)の手紙

2021年6月14日(月)


『わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。』ローマ人への手紙6章4節


パウロは、人が義とされるのは、行いによるのではなく、私たち罪人のために、十字架についてくださったイエス・キリストを信じることによって、その救いにあずかることができるのだと語ってきた。

では、どんな罪人であっても、イエス・キリストによってその罪がゆるされるなら、私たちの側の責任は、すなわち一生懸命生きることや、清い生活をしていくことなどは、不必要になるのか。

むしろ神の恵みを多くいただくためには、悪事を積んでいったほうがよいのではないか。

確かにパウロの恩寵信仰には、そのような考えが生まれてくる素地があった。
それに対してパウロは、「断じてそうではない」と言う。

あなたがたは罪に対して死んだのではないか。
死んだ人間がどうしてもう一度罪を犯すことができるのか。
イエス・キリストを信じるということは、イエス・キリストのバプテスマを受けることであり、それはイエスと共に死んだことではないか。

逆に言えば、イエス・キリストを信じていると思いながら、罪を犯し、罪にとどまっているとすれば、それはイエス・キリストを信じていないことなのだとパウロは言う。

私たちがパプテスマを受け、イエス・キリストを信じたということは、イエス・キリストに結びついたということである。
イエス・キリストが死んだように私も死に、イエス・キリストの新しい命に生かされることなのだ。

神によって永遠の命が与えられるために、私たちはキリストと共に死ななければならない。
たいせつなことは、キリストと共に私が死ぬかどうかということである。

それでは、死ぬとはどういうことか。
12節、13節でパウロは語っている。
それはひと言で言うならば、神のために生きていくこと、まず神の国と神の義を求めていくことである。

死ぬということは、自分を義の武器として神にささげ、神よ、どうぞこの私の人生を、私の時間を、私の力を、あなたのためにお使いくださいと、自分のいっさいを神にささげていくことである。

15節以下でパウロは、私たちがだれの僕となるのかについて語っている。
私たちはいま何を信じて生きているのか、その信じているものが本物かどうかを考えてみることが大事である。

私たちは、神の僕になると大きな損をするように思うが、神の僕でなければ、罪の僕なのだ。
だれの僕になるかを選ぶのは私たちの責任である。

神は、いままで罪の僕であった私たちを解放してくださった。
その贖い代をイエスが払ってくださった。
だから私たちは義の僕となって生きなければならない。

義の僕の価は永遠の命であり、罪の価は死である。
死ぬということは、自分の体を義の武器として神にささげていくことであり、ここに私たちの歩むべき道があるとパウロは語るのである。

God Bless You!!


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