2021年6月13日(日)の手紙

2021年6月13日(日)


『神の愛がわたしたちの心に注がれているから……。』ローマ人への手紙5章5節


私たちは、律法に照らされたとき、神の前に平安を持つことができない。
そこから隠れ、恐れざるをえない。
しかしその私たちを神は迎えられる。そのことを思うと心の底から喜びがわいてくる。

イエス・キリストによって、神の光に照り輝かされる者になるという希望が与えられる。
そのようにして、単に将来のことに対して希望が持てるだけでなく、いまの患難をも喜ぶことができる。
なぜなら患難は忍耐を、忍耐は練達を、そして練達は希望を生み出すからである。

5節に「なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」とある。
パウロが、神の愛を知っているとか、理解しているからと言わなかったところに、私は一つの意味があると思う。

私たちは、心がカサカサになり、トゲトゲしくなることがある。
しかし、夜露がおりて乾いた土地が湿り、作物が成長していくように、神の愛が注がれることによって、私たちの心はうるおってくる。

ある人が、「先生、もう私はだめです。修養が足りませんから」と言うので、「修養が足らんからとは違いますよ」と言うと、「いいえ、私はみなさんのように修養してませんから」とのことだった。

このように、信仰を修養のように思っている人がある。
私たちがどんなに修養しても、それだけでは決して力にあふれた喜びに達することはできない。

クリスチャンは、自分の修養や努力、あるいは信仰生活によって生きていくのではなくて、上から注がれる神の愛を受けたとき、心が息づいてくるのである。

さらにパウロは、そのような注ぎを受けることができるのは、聖霊によると言っている。
私たちがキリスト教を理解するというか、議論したり説明したりするためには、聖霊は要らない。
しかし、神の愛は、私たちの知恵や理屈や議論だけでは、自分の心のうるおいになってこない。
そこには、生命が注がれなければならない。

聖霊は、生命の霊である。
神は聖霊を私たちに注ぐと約束しておられるし、現にペンテコステにおいてそれは注がれ、私たちがどのようにしてその注ぎを受けることができるかを示してくださっている。

私たちのいまの状態は、ちょうど明け方のようなものであって、朝の太陽の光が注がれ始めている。
美しく整理された家にもきたない家にも、太陽の光は入ってくる。心さえ開けば、太陽の光は私のところへも入ってくる。

私たちは窓を開いて、御霊の注ぎを受け取っていくことに努力すべきである。
そのとき、キリストにある神の愛が、じんわりと心に注がれる。
神の愛が具体的に私のような者にも注がれていることを思い、その神に驚き、その神を喜ぶことが信仰生活である。

God Bless You!!


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