2021年6月11日(金)の手紙

2021年6月11日(金)


『しかし今や、神の義が……。』ローマ人への手紙3章21節


第3章に至って、ユダヤ人のすぐれている点は何か、とパウロはまず問う。
彼らのすぐれた点は、第一に神の言葉がゆだねられていることである。
それは神からの信任、信頼を受けたことであり、そこにユダヤ人の誇りがあると言っている。

しかし「もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、その不真実によって、神の真実は無になるであろうか」。

人間の不真実と神の真実のどちらが大きいか。
たとえば友人関係でも、一方が友人に真実を尽くしても、相手が不真実で裏切ってばかりいると、もうこの人の真実はなくなる。

そのように神の真実は、人間の不真実によって消えてしまうようなものなのか。

「断じてそうではない」。
神は、そんな現金なかたではない。
人間が悪いことをしても、なお神は真実を持って愛してくださる。

人間の不真実によって、神の真実がはっきりする。

しかし、キリスト・イエスの十字架の贖いによって、いっさいの罪がゆるされるとなると、神の愛を知ろうと思えば思うほど、私たちは罪の中におればよい、罪を犯せばよいということになるのではないか。

いや、断じてそうではない。
そこでは、神の恵みが単なる理屈の世界でやりとりされている。
神の真実の愛は、人間の言葉や知恵では説明できるものではない。

イエスの十字架の死という事実が、救いの根底にある。
このことを除くと、恩寵というものを誤解する危険があると、パウロは指摘するのである。
律法によって人間は決して義とされることはなく、むしろ律法を守れば守るほど、罪の自覚が生まれてくる。

ルターは、神の前に義となろうと努力した。
しかし、自分が気づかずに犯している罪があるのではないかと、ついにノイローゼになった。
ほんとうに律法を厳しく守ろうとするほど、私たちはいたたまれなくなる。

こういう律法の世界を語りながら、ローマ人への手紙の大事な分水嶺というか、頂上とも言えるに節に達するのである。

「しかし今や、神の義が……」。

神の義とは、神からの義である。
人間がどんなに努力しても救われることも、義とされることもできない。
そういう窮地に陥っている人間に、神のほうから、イエス・キリストを信じる信仰によって、すなわちイエス・キリストのいさおしによって神の義が与えられる。

私たちが義とされるのは、神から与えられるものであり、どんな罪人であろうと、どんな過去を持っていようと、どんなつまらない人間であろうと、すべて信じる者、イエス・キリストに依り頼んでいく者には、贖いの十字架の力が及んでいるということである。

どんな人も、神の前に罪ゆるされて義とされた。
そこに福音の大きな喜びがあり、私たちの新しい世界が生まれてくるのである。

God Bless You!!


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