2021年5月7日(金)の手紙

2021年5月7日(金)


『父よ、時がきました。……栄光をあらわして下さい。』ヨハネによる福音書17章1節


イエスが残される弟子たちのために、十字架につかれる前に、神へのとりなしの祈りをされた。

「父よ、時がきました。
あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわしてください」。

イエスは十字架において、私たちの罪の贖いの死をとげるために生まれてこられた。
その人生は、ほんとうに苦難の僕と言われるような、悲しみに満ちた暗い人生であった。
しかしイエスはそれが栄光をあらわす時だと言われた。

十字架という最も悲惨な状態を、イエスは栄光をあらわす時だと言われた。
私たちはこの十字架を栄光とまで思ってもいないし、できれば避けて通りたい、十字架は小さいほどよいという考えを持っているのではないか。

もし、キリスト教信者は十字架を負うためであると言われたら、ギクッとするのではないかと思う。

あなたがイエスを信じるようになったから、あなたの十字架が除かれ、ただ慰められるだけだと言われると、ああ、よかったと思うが、イエス・キリストを信じ、イエスによって選ばれ、キリスト信者として生きる目標は十字架だと言われると、キリスト信者を早くやめて、あすからどこか違うところへ行こうという気持ちになるだろう。

けれども十字架を負うことが、私たちの信仰の目的なのだ。
抽象的なものでなく具体的に十字架を負うところに私たちの目標がある。
その十字架はゆるされたという喜びからくる、従っていく十字架である。

では、十字架を負うとは何か。
私はこの祈りから二つのことが言えると思う。

第一は、一つになること。
気の合った者同士が一つになることはやさしい。
意見の合わない者が一つになるには、自分が十字架を負わなければありえない。

私が私であればみな孤立してしまう。
私が私でなくならなければ一つになることはできない。

もう一つは、イエスが「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります」と祈っておられることである。

私たちはともするとこの世はわずらわしい、真理がないと言って、この世からのがれようとする。
しかしイエスは、この世から出るのではなく、むしろこの世の中に生きなければならない、そこで神に守っていただくことがわたしの願いであると祈ってくださっている。

私たちは一人で闘っているのではない。
どんな苦しみを背負ったときでも、イエスが私たちのためにとりなしの祈りをしてくださることを忘れてはならない。

この牧会の祈りは私たちに無限の勇気と慰めを与えてくれる。
十字架が人生の目標であるとして私たちが従っていくとき、天においてイエスがとりなしの祈りをしていてくださる。

そこに私たちの生きていく強さがある。

God Bless You!!


a:40 t:1 y:0