2021年5月30日(日)の手紙

2021年5月30日(日)


『主イエスの名によるバブテスマを受けた。』使徒行伝19章5節


この章にアポロのことが出てくるが、18章では、彼はアレキサンドリア生まれで、聖書に精通し、しかも雄弁であったと紹介されている。

アポロが聖書に精通し雄弁であったというのは、人間的な力である。
しかし彼がどのように神に愛され、どのように神が彼に近づかれたかということは、何も書かれていない。
そこにアポロの問題がある。

私たちも人間である以上、能力、学問、教養、性格にいろいろな差がある。
しかし福音はそのようなものにとらわれることから解放してくれる。
私たちにとって最大の問題は、私が何者であるかではなく、神が私にどのように臨んでくださったかという神との関係である。

アポロには一つ欠けたところがあった。
パウロが「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と問うたとき、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えたのは、アポロに教えられた弟子たちであった。

アポロは人間的には有能であったが、神の働きについては知らなかったのである。

「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」とパウロが聞くと、「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と彼らは答えた。

ヨハネのバプテスマは、いままで犯した罪を悔い改めて、ゆるしてもらうものである。

罪は人間にはどうすることもできない。
多くの人は善行を積めば罪が消えると思っていたが、自分の力で自分の体を持ち上げることができないように、人間には自分の力で罪を処分し清めることはできない。

罪はゆるしてもらうよりほかにどうすることもできない。

ゆるされるためには、だれかがその代償を支払わなければならない。
そこに、イエス・キリストの十字架の代価なしには私たちに救いがない理由がある。
そこにキリスト信仰の独自性、絶対性がある。

罪というものがゆるされなければならないものであり、ゆるされるためにはイエス・キリストの十字架がどうしても必要だとわかるのは、罪のゆるしを求めてもがいた人間だけである。

しかし、過去の罪がゆるされただけではほんとうの解決ではない。
新しい命に生かされることがないなら、過去と同じことの繰り返しに終わる。
それがヨハネのバプテスマ、水のバプテスマの限界である。

イエスは聖霊によるバプテスマを強調された。
神の生命によって新しく生かされていくものである。
それが主イエスの名によるバプテスマである。

水のバプテスマは、私たちの過去の罪を洗い落とす。
しかし聖霊のバプテスマは、新しい生活を与えるものである。
このことがアポロの弟子たちに欠けていたのである。

God Bless You!!


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