2021年5月21日(金)の手紙

2021年5月21日(金)


『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない。』使徒行伝10章15節


この章には異邦人コルネリオの救いの記事がある。
異邦人の救いということには、考えてみなくてはならない複雑な事情がある。

イスラエルの人たちは、私たちの想像以上に異邦人との交わりをこばんでいた。
異邦人にふれたら、彼らのけがれが自分に及ぶと言って忌み嫌ったのだ。

彼らは自分の清さを保つことにだけ没頭していた。
自分を清く保つためには、他の人から分離していなくてはならない。
その極端なものがユダヤ教にほかならなかったのだ。

主イエスは、そういうあり方を大胆に改革していった。
分離することが私たちの使命ではない。
主はご自分の弟子に使徒という名をつけられた。
使徒とは遺わされた者という意味である。

逃げだしてくるのではない、遣わされるのである。
これがイエスの宗教観であった。

そして、遺わされるために、退いて祈ることをたいせつにされた。
人を避けて一人で神に祈られたのである。
出かけていくために、退いたのである。

ユダヤ人は自分を守るために退いて、神と交わった。
それはすべてがまちがいとは言えないが、しかしその礼拝が自分の信仰のためだけとなっていたところに大きな誤りがあった。

異邦人と交わることをしなかったこのユダヤ人の問題点を正しく理解し、この10章を読まなければならない。

コルネリオは異邦人であった。
しかし同時に、彼は熱心な信仰者であった。

ある日、彼は幻でペテロを招くように言われ、使いを出した。
しかしそれだけでは、ペテロは決して異邦人コルネリオの家に来ることはなかったであろう。

ところがそのペテロに、主は幻で「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」と三度語りかけられておられたのだ。

そのことを思いめぐらしているところヘコルネリオの使いが来たので、ペテロは何のわだかまりもなく彼らを家に迎え入れた。
非常にかたいしきたりが、自然に破れたのである。

もしそういう神の手だてがなかったとしたら、そのしきたりは決して破れなかったに違いない。
神との交わりが、そのかたいものを自然にとかしたのである。

ペテロはコルネリオの家で、イエスの御業を語った。
そのとき、滅びるほかに道のない、神の外にあると思われていた異邦人に、聖霊が下った。
非常な驚きであった。

人間の決めたわくや規則を神が破られたのである。

福音が異邦人に及ぶのには多くの障害があった。
神がその障害を越えられた。
ペテロはそのあとについていって、障害を乗り越えたのである。

神のあとから行くのである。
そうでないなら決して障害を乗り越えることはできない。

God Bless You!!


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