2021年5月17日(月)
『彼の顔は、ちょうど天使の顔のように見えた。』使徒行伝6章15節
初代教会は非常に美しく、力強い出発をした。
しかし、時がたつにつれて、内側からも外側からも多くの問題が起こってきた。
第5章のアナニヤ夫婦の問題、第6章のギリシャ語ユダヤ人とヘブル語ユダヤ人の対立である。
私たちは教会に対して不満を感じることがある。
いまの教会は冷たいとか、ほんとうの交わりがないとか、いろいろ言われる。
しかし、問題があるから教会でないとか、問題がないから教会であるという考えは誤っている。
教会は、立派ですばらしいから教会になったのではない。
私たちの行為や生活が教会を教会たらしめているのではない。
神が召し集められたところに教会ができたのである。
神様が召しておられる、というところにいちばん大きな根拠があるのである。
私は礼拝に臨むとき、自分の弱さ、小ささを思い、集まってきた人たちに神の言葉を語ることができるだろうかと萎縮してしまう。
しかし、そういう者を用いて、神はご自身の栄光をあらわしてくださると信じて、はじめて立ち上がることができる。
神がすべてをしてくださるのだから、何をしてもかまわないとは決して思わない。
私たちは最善を尽くす。
そしてそのあとで、「私のしたことはまことにふつつかなことですが」と言うのである。
「私たちのしたことはまことにつまらないことですが、神よ、どうぞ、あなたの憐れみをもって、これを清め、慈しみをもってこれを用いてください」と言うところに、私たちの平安がある。
ステパノの行いを否定できなかった人々は偽りの証言でステパノを議会にかけた。
席についた者たちは「ステパノに目を注いだが、彼の顔は、ちょうど天使のように見えた」とある。
ステパノには、この世の悪意や策略などが通じない世界があった。
この世の力ではどうすることもできない平安があったのである。
シャローム(平安)というヘブル語があるが、これは逃避の平安ではない。
しずめていく平安である。
私たちは、絶えず世間のことや、人のことによって揺れ動き、すぐ顔色が変わったり態度が違ったりしやすい。
それは私たちが、そういうものから守ってくださるかたを持っていないか、気がつかないからである。
シリヤの軍勢が馬と戦車で町を囲み、若者が非常に恐れたとき、エリシャは「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから」と言い、若者の目を開いて見させてくださいと祈った。
私たちを守り、盾、やぐらとなっている神を見ているなら、ステパノのように捕らえられ殺されるという場合でも、天使のような平安な世界に生きることができる。
私たちは、どんなときにも、はっきり見るべきもの、仰ぐべきものを持って、平安の中を歩んでいきたい。
God Bless You!!
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