2021年5月16日(日)の手紙

2021年5月16日(日)


『この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい。』使徒行伝5章20節


初代教会のすばらしさは、この世に対して何の発言力も持たなかったという弱さにあると思う。
主が「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と言われたとパウロは書いているが、神はそのように人間の弱いところで働かれるのである。

この世はしばしばまちがったことや悪い企てを行う。
私たちはそれを正さなければならない。
しかし、なにがなんでもそれを阻止しなければと考えるのではなく、私たちと共にいてくださるもっと大きな力を信じることがたいせつである。

「ところが夜、主の使が……」。

ところがである。
この世の人が知恵をしぼり、力をしぼって私たちを葬ろうとしても、思いがけないところに神の働きが起こって、私たちを守ってくださる。

そういう神に守られているという信仰を、 私たちは持っていなければならない。
そういう神を信じている者には、まったく光のない、助けのない、どこにも解決の道が見つからないというときに、主の使いがあらわれて、どんでん返しの解決が起こる。

「これを聞いた者たちは、激しい怒りのあまり、使徒たちを殺そうと思った」とある。
当時の権力者にとって10人や20人の人間を殺すのは、ぞうさもないことである。
まして使徒たちは抵抗する力も何も持っていない。

ところが、ガマリエルが立って、どんでん返しがあり、使徒たちは釈放された。

この世では、理にかなわぬことがまかり通り、私たちは踏みにじられたり、非道の世界で苦しめられ、悩む。
しかし、そのような中にあっても、神は必ず「ところが」という世界を起こされる。

「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」。
真っ暗やみの中にあっても、神のひと言で光がさしてくるのだ。

正しいことには忠実であり、悪いこと、まちがっていることには勇敢でなくてはならない。
しかし最終的には、それらのことすべてをみな神にゆだねていくのが私たちの信仰である。

悪いことに対して、悪いと発言することはよいだろう。
しかし、そうするために自分に力を蓄えて強い者になる必要はない。
私たちが弱くても、私たちと共にいてくださるかたが強いからである。

歴史を支配しておられる神は、どんでん返しをなさる。
この「ところが」の神をかたく信じるのが私たちの信仰生活なのだ。

二度のどんでん返しがあったが、そこには神の目的がある。
単なる解放ではない。
主の使いは、「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく人々に語りなさい」と言った。

宮の庭は、祭司やサドカイ人の本拠地である。
そういう敵対者の中で命の言葉を伝えていくことが、どんでん返しの神の目的であった。

God Bless You!!


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