2021年5月13日(木)
『すると、一同は聖霊に満たされ……。』使徒行伝2章4節
第2章にはペンテコステの日の出来事が記されている。
聖霊が注がれたのは、ペンテコステすなわち五旬節の日であった。
イエスが十字架につき、復活されてから50日目、神の計画があって、弟子たちは聖霊を受けたわけである。
五旬節の日が来たら全員が聖霊を受けたのではない。
イエスの言葉を信じて、約束の御霊を、心を一つに合わせてひたすら待っていた人たちの上にだけ注がれたのである。
私たちにとって神の国はすでに来たものであり、五旬節も同じく来たものである。
聖霊はすでに注がれている。
そこで私たちの責任があらためて問われる。
聖霊が注がれているのに、それを受けていないとすれば、それはみんなの者がいっしょに集まって「約束を信じて待ち望む」ことが欠けているのである。
私たちの努力と関係なくすでに五旬節は来たのだ。
だから私たちにとっては、いっしょに集まって御霊が注がれるのを待つことがたいせつなのである。
「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起って」とある。
聖霊が下るのは突然であり、地上からではなく天からである。
聖霊のことを非常にやかましく言う人があるが、そこでは一時間ぐらい賛美歌を歌い、悪く言えば賛美歌に陶酔してしまい、そのうえで強いメッセージを聞いて、自分の心が聖霊に満たされたような気持ちになり、地上の制約や憎しみましみを忘れ、ただ神の恵みだけがすべてになってしまうような状態となる。
それが、聖霊が下ったことだと言う。
それは突然でもなければ、天からでもない。
気をつけねばならない。
信仰は感情的なものであり、それがなければ信仰は成立しないが、それだけに、信仰は冷静さを失ってはならない。
冷静さを失うと信仰は単なる自己陶酔になり、普遍性をなくして盲信となってしまう。
反面、冷静さを保つということは、人間の努力や判断や作為が前面に出てくる面もある。
そうなると信仰は命を失ってしまう。
その点がむずかしい。
とにかく、聖霊が人間的な何かですり替えられないように気をつけなくてはならない。
私たちのためにひとり子を十字架につけてくださった神に期待していく、このかたによって私の心は満たされておるという状態には、人から理屈で説明されてもなれるものではない。
御霊が注がれるとき、はじめてそれはわかることなのである。
God Bless You!!
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