2021年5月12日(水)の手紙

2021年5月12日(水)


『心を合わせて、ひたすら祈をしていた。』使徒行伝1章14節


「使徒行伝」は「聖霊行伝」とも言われるように、使徒が働いたことよりも、使徒を通して聖霊がどのように働かれたかということを記している。
そのことを考えて読むことが使徒行伝の読み方である。

聖霊を受けるという、目に見えないものをたいせつにしていくことはなかなかむずかしい。
信仰は見えない神を相手にした生活で、見えない部分で時間や犠牲などをどれだけささげているかが非常に大事なことだと言った人もある。

私たちは見える世界に終始しやすいが、隠れた神の前にどれだけ信仰に励んでいるであろうか。

さて、弟子たちは二階座敷で「みな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた」。

その祈りの中で導かれてきたことが一つある。
それは、ユダのかわりに一人の人を立てなければならないということである。

聖書では、12はたいせつな数字である。
12人の弟子の中から一人欠けたまま祈っていたが、それでは心を合わせてひたすら祈ることにならない。
一人が欠けていれば、全部が欠けになるということである。

そこで一人を選んだ。
聖霊が下る前になされたこのことは、非常にたいせつなことである。

私は以前に「健康な教会」という主題で説教を書いたことがある。
病人というのは、からだ全体が悪いのではなく、どこか一部が悪い。
しかし一か所が悪いとからだ全体が悪くなってしまう。

それと同じように、教会ももし一人が病んでいるなら、その教会は神の御霊を受けることはできない。

人間の働きはできるが、神の器となることはできない。
一人が全体であり、一人の状態が全体に影響する。
私一人ぐらいとは言えないのである。

そこにキリスト教における連帯という大きな問題がある。

教会の使命とは人間が力を合わせて何かをするというようなものではなく、神が私たちを通してこの時代に力強く働きだされることである。

どんな時代でも教会を建てられたのは神であり、イエスである。
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」とあるように、教会を建てるのはイエスであり、私たちはそれに参与するのである。

それを私たち自身がするように思っているなら、悔い改めねばならない。

キリストのからだなる教会であるなら、そこでは人間は退いて、キリストの業が尊ばれなければならない。
聖霊が授けられるためには、一人の欠員が補充されねばならない。

教会が今日の時代に力強い働きをしていくためには、どこかに欠員ができているのではないかと、自分の問題として反省しなければならない。
そして私自身の欠けが補われるまでは、教会は世の光、地の塩となることはできない。
それをはっきりとすべきである。

God Bless You!!


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