2021年5月10日(月)の手紙

2021年5月10日(月)


『聖霊を受けよ。』ヨハネによる福音書20章22節


墓には亜麻布があるだけで、彼らはイエスが墓にいなくなっていることを認めたが、「死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった」。

経験だけでは信仰にならない。
イエスの復活に出会っても、それが復活だとわからないで、なにか不思議なことというように片づけられてしまっている。

もちろん不思議なことであるが、神がなぜこのような不思議なことをなさったか、それが私たちとどのようなかかわりを持つかは、のちにわかることであった。

私たちも不思議な経験をすることがあるが、単なる偶然であるとか、あるいは不思議なこともあるものだというぐらいで片づけることが多い。
それではいつまでたっても信仰は確立されていかない。

聖書を読み、聖書から物事を見ていくと、はじめてそのものの持っている意味を知ることができるのだ。

マリヤが泣いていたとき、イエスがうしろに立って、「女よ、なぜ泣いているのか」と言われたが、マリヤはうしろに立っているのが、イエスであることがわからなかった。

ところがイエスが「マリヤよ」と言われたとき、そのかたがイエスだとわかった。
このことも私たちが信仰生活をしていくうえで、イエスと私との関係をたいせつにしていくことが必要だということを物語っている。

神と出会う人はみな個人である。
アブラハムよ、モーセよ、あるいはサウロよ、アナニヤよというふうに、一人の人間として神の前に立たされる。

一人になるときはじめて、神とのほんとうの交わりが生まれる。
神と一対一の交わりをマリヤはしていたから、「マリヤよ」というその声をおぼえていたのである。
そういう神との、またイエスとの交わりを持っていると、困難や行き詰まりのときにも、イエスからの語りかけを聞くことができる。

「彼らに息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ』」。

私たちにとって必要なことは、聖霊を受けるということである。
弟子たちはイエスがよみがえられたことを経験し、その意味も知ったが、それが恐れを取り除く力にはなっていなかった。
だからユダヤ人を恐れて、中にこもってしまった。

そういう弟子たちにイエスは聖霊を受けなさい、あなたがたに信仰が、いま力にならないのは、聖霊を受けていないからであると言われた。

私たちも、イエスが十字架について死んでくださったことは百も承知しているし、神はその一人子をたまうほどにこの世を愛してくださったこともよく知っている。
けれどもそれが私たちの信仰生活にとって少しも力になってこない。

たとえば私は人の足を洗うというような奉仕の生活ができない。
これほど信仰生活をしているのに、なぜ力がないのだろうかと思う。
それは聖霊を受けていないからである。

God Bless You!!


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