2021年4月8日(木)の手紙

2021年4月8日(木)


『ただ、御国を求めなさい。』ルカによる福音書12章31節


13節から21節までは、ルカに特有の記事である。

このところで「あなたがたは、自分の倉を大きく建て、そこに財宝を蓄え残しても、人は何も持たずに死ななければならない。
だからそんな愚かなことはせず、人に与え、人を助けるような人になりなさい」とイエスが言われたように聖書を解釈しがちであるが、それでは、すばらしい人生訓にはなるが、福音にはならない。

またそれでは、イエス・キリストの十字架とは関係がない。

施しのできる人間になりなさい、と言うだけであれば、これは律法の教えであり、愛のすすめにはなるが、福音にはならないのである。

福音はもっと深いところに意義がある。

この金持ちの農夫の言葉の中には、私、私という言葉がたくさん出てくる。
私の作物、私の倉、自分の魂、ギリシャ語の聖書では、18節の「穀物」と「食糧」も、「私の穀物」「私の食糧」となっている。

そこには二つの問題があると思う。
一つは、彼が自分のことだけしか考えていないことである。

多くの借金がある僕を憐れんで、主人がゆるしたように、私たちは神からゆるされ、愛されている。
私たちは聖書を読み、そのことを知り、それがどんなにすばらしく、深い喜びであるかを知っている。
しかし、ともするとその感じが鈍くなってきているのではないだろうか。

罪にけがれた過去から、「子よ……。あなたの罪はゆるされたのだ」との御言葉に救われ、信仰生活を始めたときの喜びを、私たちは決して忘れてはならない。
それと同時に、神から、このようにおまえを愛したが、おまえはどうだと問われている存在であることも忘れてはならない。

愛された、ゆるされたと喜んでいるだけでは、ほんとうの福音の理解にはならない。

金持ちの農夫は、神との関係を知らず、問われている自分に気がつかなかった。
だから作物の豊かさに心を奪われ、私が、私が、という生活をしていたのであり、そこに愚かさがあったのだ。

もう一つは、私が、私がと言っている、自分に対する過信である。
自分の力、自分の業に依り頼んで生きていこうとすることは、律法の世界である。

神の前に富む者とは、神の前に義とされようと善行を積む者ではなく、私たちを富ませるために、みずからが貧しくなってくださったイエス・キリストに依り頼む者のことである。

それはどこまでも神に裁かれる者、あるいは神に問われる者としての自覚なしに、神の前に富むということはわからない。

God Bless You!!


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