2021年4月30日(金)の手紙

2021年4月30日(金)


『わたしは羊の門である。』ヨハネによる福音書10章7節


「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である」。

羊の門というのは、牧者が羊をそこから出したり、また導き入れたりするところである。
その門を通るから羊飼いであって、他から出入りするのは強盗である。
この門を通って入る者だけがほんとうの羊飼いである。

牧師はイエスという門を通って、すなわちイエスの任命によってはじめてその資格を与えられる。
たとえば私は牧師をしているが、その資格があるだろうかと迷いが起きてくるときがある。
自分の知識とか信仰とかが問題になってくると非常に悩む。

しかしそのような私を支えてくださるのは神である。
神が私を清めて牧師として立ててくださったのである。

私が人からどんなに批判され、また自分自身つまらない者だと思ったとしても、その私がいまあるということは、御心にかなう者として、イエスから召し集められた者だからである。

御心にかなわない者は、この場所を得ることはできない。
私に資格があるのではなく、イエスの十字架に清められて、神が立たせてくださっているのだ。

そう思うとき、牧師としての責任感がわいてくる。
神に立てられたとか、選ばれたとかいうことが希薄になり、自分の知恵や力に依り頼んでいこうとすれば、神の言葉を語るなどという大それたことはできない。

これは、信徒の場合にも言えることである。
よくいろいろと自分を卑下する人がある。
ある意味ではそれも必要だと思うが、ある程度以上になってくると、いったいその人の信仰はどこにあるのかと思う。

自分でことさらに言わなくても、私たちは「私のような者は」という程度の者である。
しかし、そのような者が救いにあずかり、神を信じる者とされているということが、私たちの誇りであり、よりどころである。

いくら謙遜なことを言っても、それはむしろ神の前にその恵みを拒否することであり、神なしで自分が生きてきたかのごとく思うことだから、大変倣慢である。

信仰生活においても、イエスあっての自分であるという信仰が大事ではないかと思う。
イエスのゆえに信じる者とされており、いまキリストの証し人として立たされている。
私たちの生きる根拠が常にイエスご自身にあることが大事である。
羊の門と言われたのは、このことである。

私たちは日々、過ちを犯し、イエスの恵みにあずかった者としてふさわしくないような言動をするものである。
しかしなお私たちはその中でイエスの慰め、励ましを与えられている。

「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう」。
このイエスを通して信仰生活はなされていかなければならない。

God Bless You!!


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