2021年4月29日(木)の手紙

2021年4月29日(木)


『神のみわざが、彼の上に現れるためである。』ヨハネによる福音書9章3節


イエスが道を通っておられるとき、生まれつきの目の見えない人を見られた。

聖書の中に、イエスがごらんになったということがしばしば出てくる。
私がイエスを見る前に、イエスは私をごらんになる。
そしてそこから一人の人に、聖書に載せられるほどの大きな事件が起きてくるのである。

聖書に載るということは、歴史書に載ることとは比較にならないほど大きいことである。
私たちがイエスに見つめられ、選ばれていることは、大きな事件の源泉である。
それを正しく受け止めていくとき、私たちは本来自分の中にない働きや価値を持つことができるのだ。

「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。
本人ですか、それともその両親ですか」。

目が見えない、体が不自由である、病気である、貧乏であるというのは不幸なことであり、またそれは神ののろい、神の刑罰であると考えられていた。
イエスはそういうものに対して新しい解釈を、新しい世界を展開された。

「貧しい人たちは、さいわいだ」、「泣いている人たちは、さいわいだ」。

磨貧しい人が幸いなはずはない。
しかしイエスがそう言われたのは、私たちが不幸だと思うことに新しい解釈を創造されたからである。

「艱難 汝を玉にす」。

艱難があってこそ、人間は玉に磨かれていくのだから不幸ではない、と説明する人があるが、イエスはそのような意味で、新しい解釈を与えられたのではない。

イエスが来られたことによって、私たちが不幸だと思うものが光を放つようになった。
「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。
ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」。
イエスが来られることによって、その目の見えない人は神の栄光をあらわす場となったのである。

イエスは泥をすくって目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われた。
「そこで彼は行って洗った」。

これは簡単なことではない。
聖書はいかにも簡単に書いているが、そこにかえって強いメッセージが感じられる。
神の約束を信じ実行すれば、見えるようになるのである。
それをできるかできないか自分の水準にまで引き下げて、いろいろ検討するから、聞くだけで実行できなくなる。

「ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲であったが、今は見えるということです」。

キリスト教信仰は、結局これだと思う。
その一つのことを知らないで、他のことを知ってもむだである。
ただ一つのことを、イエスによってこうされたというものを持つこと。
教会の弱さや、伝道の不振を嘆くよりも、一つのことを知るということ、信仰を持つことがたいせつである。

God Bless You!!


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