2021年4月26日(月)の手紙

2021年4月26日(月)


『わたしだ、恐れることはない。』ヨハネによる福音書6章20節


パンの奇跡と次の2節までの物語は、四福音書のいずれにも出ている記事である。
それはこの聖書が書かれた時代の人々にとって、非常に大きな慰めであり、彼らの信仰の原点であったからだろう。

ちょうど疲れた者が、家に帰って元気を回復してまた出ていくように、初代のキリスト教徒も、迫害や誤解の中で信仰し、いろいろと疲れを覚えていたに違いない。
そういう中で彼らはこの奇跡を思い起こしては、元気づけられ、あるいは波の上を歩いてこられるイエスを思い出しては、勇気づけられていったことであろう。

さて、パンの奇跡が行われると人々は感動して、イエスを王に推し立てようとしたと聖書は記している。
ところがイエスは、弟子たちを海へ(海というのは聖書ではだいたい不安を意味している)、不安の世界へと送り出された。

その世界では神を否定し、神の業は見られない。
イエスが来られても、それが幽霊のようにしか思えない。
実体が伴わない。
神が、イエスが、十字架がと言っても、言葉だけがから回りする、そんな世界である。

そういう世界へ弟子たちを追いやられたのだ。

パンの奇跡を見て感動した弟子たちも、具体的なこの世の力の中に投げ込まれたとき、まったく恐れとおののきしかなかった。

私たちも礼拝で、あるいは聖書を読んでいるときに、心が高揚され、イエスは主であると思い出かけていく。
しかし金や力が物を言う世界に飛び込んでいくと、イエスは主であるということが瞬く間に消えてしまい、やはり金や地位や力がなければだめなのではないかということになってくる。

そうなるとイエスは主であると自分にいくら言い聞かせても、それが少しも実体を伴ってこないのだ。
幽霊とはそのことである。

そのときイエスは「わたしだ、恐れることはない」と言われた。
「わたしだ」というのは、ギリシャ語で「エゴー・エイミー」と言い、非常に荘重な言葉である。

恐れるのが人間であって、恐れることをそれほど恥じる必要はない。
そこで「わたしだ、恐れることはない」と言うかたの声を聞くとき、恐れは喜びに変わる。

困難や苦しみがあっても、歯をくいしばっているのが信仰生活ではない。
痛いときには痛いと言うし、腹が立つときには腹の立った顔をしてもかまわない。
しかしそれが続いていたのではだめなのだ。

「わたしだ、恐れることはない」という言葉によって、その状態から救い上げられるところに平安が、また勝利の生活が与えられているのである。

初代の教会は、この「わたしだ、恐れることはない」という言葉を、牢獄で、あるいは円形劇場でのライオンとの戦いの中で、イエスから聞いていたのだろう。
この奇跡は、初代の教会の人たちにとって大きな慰めとなったに違いない。

God Bless You!!


a:42 t:1 y:0