2021年4月25日(日)の手紙

2021年4月25日(日)


『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい。』ヨハネによる福音書5章8節


ベテスダの池には、おおぜいの病人が来ていた。
ベテスダとは恵みの家という意味であり、その水が動くとき飛び込んだ人はいやされると言われていた。

そんな神の恵みが注がれるところに、病人、目の見えない人、足の不自由な人たちが、自分こそその恵みにあずかり、すこやかな肉体となり、社会に復帰したいとの願いを持って、来る日も来る日も横たわっていた。

そこに38年もの間、病気に悩んでいる人があった。
その人は、水が動いても自分を池の中に入れてくれる人はいないし、自分が入ろうと思えば、他の人が先に入ってしまう、自分はどうせだめなのだというあきらめの中に横たわっていた。

それでもなお、彼は恵みの家に来ていることを気休めにしていたのだ。

私たちの中にも、こんな気休め程度に信仰生活を送っている人が多いのではないか。
なにか歯が抜けたようで気持ちが悪いから日曜日の礼拝に行くとか、小さいときからずっとしていることだから、そうしないと気持ちが悪いというようなことで信仰生活を送る。

そこでは生ける神に出会い、神の言葉によってもう一度、自分の内に新しい生命を与えられるという希望や期待がない。

38年の長い間ここに来ていても、それほど驚くこともなかったから、きょうもまたそうであろうというように、いつまでも自分の過去にとらわれ、神の全能を見ていこうとせず、神に深い期待をかけていこうとしない信仰態度というものが、私たちを強く支配しているのではないか。

私たちはせっかく恵みの家に来ておりながら、そこで自分は恵みにあずかりたい、恵みにあずかるのだという強い思いを持たないで、気休めにただそこにすわっているにすぎない信仰生活をしているのだ。

それに対してイエスは、「なおりたいのか」と聞かれる。
いまも私たちに、恵みの家に来て救われたいのか、救われたいのであれば「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と言われる。

もしそのような恵みに生きたいと思うなら、いままでの生活、自分の過去、自分の力、そういうものがすべてであるとする生活から立ち上がり、歩きなさい、と言われるのである。

もう一度、自分自身をふり返ってみよう。
私たちは、38年の間床にくぎづけになって、そこから起き上がることもできず、ただ恵みの家という教会に来ているだけではないか。

イエスはそういう人に対して、起きてその床を取りあげよ、そして信仰を持って歩けと言われる。
彼はそのとおりにしたとき歩くことができた。

私たちも信仰によって全能の神と共に歩む者として、この世の物質や金などにがんじがらめにされた卑屈な人生でなく、それらを超えて生かしてくださるかたの生命の息吹に生かされながら歩んでいきたいと思う。

God Bless You!!


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