2021年4月23日(金)の手紙

2021年4月23日(金)


『だれでも、水と霊とから生れなければ、 神の国にはいることはできない。』ヨハネによる福音書3章5節


ニコデモが夜イエスを訪ねて言った。
「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。
神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。

キリスト教信仰を、自分でがんばる宗教のように思っている人がある。
熱心ではあるが、その人の信仰生活は、なんだか堅苦しい感じがしてくる。

信仰生活は道徳や倫理ではなく、また自分が生きるのではなく、生かされるものである。私たちがどんなにつまらない者であっても、神が共にいてくださり、私たちを用いてくださるときに、私たちはすばらしい者となることができるのだ。

神が共にいてくださることが、信仰生活にとって大事なことであると、ニコデモは気づいたのである。

ニコデモの質問は、どうしたらあなたのように、神がいっしょにいてくださる生活ができるかということであった。
それに対してイエスは答えて言われた。
「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と。

するとニコデモは「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。
もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」と聞いた。

そこでイエスは「よくよくあなたに言っておく。
だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」と言われたのだ。

水とは死ということである。
死ななければ生まれ変わることはできない。

イエスはニコデモに、あなたは自分の欲望をなくしたり、自分の思いを小さくするような修養によって、人間が神に近づいたり、神と共にいる生活ができると思っているが、そうではない。
どんなに人間が小さくなっても、生きているかぎりは新しく生まれることはできないと言われたのだ。

私たちは、死ななければ、栄光を受けることはできない。
少し人より早く起きて早天祈祷会に行くとか、聖書を読み、お祈りをし、献金をしたぐらいで多くの実が結べるように思うが、イエスはそのようなことは言われない。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。

私たちが具体的に死ななくても、イエスが死んでくださり、私たちも死の世界に入れられ、イエスがよみがえられたことによって、私たちもまた生命の世界に導かれている。

それが福音にほかならない。
イエスの十字架にあずかる生活、ここに私たちの信仰生活がある。

「この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまった」。
イエス・キリストが現実に死んでくださったことによって、私たちは永遠の生命が与えられたのである。

God Bless You!!


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