2021年4月19日(月)の手紙

2021年4月19日(月)


『イエスは何もお答えにならなかった。』ルカによる福音書23章9節


第23章はイエスが十字架につくまでのところである。

群衆は総督ピラトのところへイエスを訴え出た。
ピラトはちょうど、ヘロデが来ていたのでイエスをそこへ送った。

ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ。
「それは、かねてイエスのことを聞いていたので、会ってみたいと長いあいだ思っていたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからである。
それで、いろいろと質問を試みたが、イエスは何もお答えにならなかった」と書かれている。

このヘロデの態度は、王のいすに腰かけて、イエスよ、何か奇跡をやってみよという見物以外の何ものでもない。
自分が何もかかわろうとしない見物のような信仰は、イエスを沈黙せしめるしかない。
私たちはイエスが語ってくださるような関係に立たなければならない。

神の声を聞くと言うと、神の声はどんな声かと尋ねる人がある。
そんなとき私はよくわかりませんと返事をするのだが、イエスと自分の関係が密になってくると、それがどんな声であるかということではなくて、自分の心に響くようなものが生じてくる。

イエスとそういう関係に生きることのほうが、声を聞くことよりも大事だと思う。

ヘロデはいろいろの質問を試みたが、イエスはいっさい答えなかったので、彼は腹を立て、侮辱し嘲弄したあげく、ピラトに送り返した。
イエスはことさらに黙られたというより、答えることのできない状態であったのではなかろうか。

私たちも、気まずい思いがして話ができない関係に陥ることがあるが、イエスとの関係においても、いつもイエスが声をかけてくださるような状態に自分をおき、イエスを見物するのではなく、イエスの語られる言葉や、なさることに対して、真実にこたえていく者とならなければならない。

信じる世界は、何よりも両者の関係が誠実でなければならない。
信じる世界に生きるということは、私たちがイエスに対して真実である以外にはない。
イエスの言葉を聞き、それを実行することによって、私たちは神に対して真実に向かい合う者になる。

信仰というものは、誠実や真実の基盤に成り立つものであって、人格的なものなのである。
ヘロデがイエスからひと言も聞くことができなかったのは、やはり彼が真実でなかったからである。

神の言葉を聞いて行うとき、私たちが成功するとか失敗するとかよりも、神の言葉に対してまともに生きていくことに神は関心を持っておられるのだ。

God Bless You!!


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