2021年4月16日(金)の手紙

2021年4月16日(金)


『何の権威によってこれらの事をするのですか。』ルカによる福音書20章2節


11節からの律法学者たちの「何の権威によってこれらの事をするのですか」という問いに、イエスは「ヨハネのバプテスマは、天からであったか、人からであったか」と反論された。
すると学者たちが答えられないで、イエスも答えなかったと記されてある。

この問答の中で、権威というものは神のものであるから、それを正しく知りたいなら、神に服従する以外にないことが教えられる。

イエスの権威とは、イエスに何かを求めて得られるようなものではない。
かつて私は、人から「なぜそんなにキリスト教を一生懸命信じているのか。
そんなことをしていたら自分の生活がだめになってしまうのではないか。
いいかげんにしておかないといけない」と言われたことがある。

言われるまでもなく、自分自身の中にも、そういう思いが出てくる。
本気になってイエスを自分の救い主として生きていこうと思えば、わからなくなってくるのである。

しかし神からの権威は、その権威に服従するとき、はじめてわかるものなのである。

ペテロはイエスから「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。
それまで彼はイエスがどんな権威のあるかたであるかを知らず、単なる一人の教師として見ていた。
ところが、イエスの言葉に従って網をおろしてみると、あふれるばかりの魚をとることができたのだ。

彼はそれまでイエスを先生と呼んでいたが、このときはじめて、主よ、と呼ぶ者に変わった。
ペテロは、敵をも愛するイエスにならおうという、道徳の指標や、人生の教師として、イエスを信じ始めたのではない。

私たちも、イエスは私たちの造り主なのであり、イエスによるほかに道がないと思うからこそ、イエスを信じている。
自分には罪がないと思っている人や、自分の罪の弁護をする人には、イエスの十字架の恵みはわからない。

幾度も自分が罪を犯し、その自分の弱さに泣いた者だけが、はじめてイエスを知ることができる。

イエスの前にペテロはひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。
わたしは罪深い者です」と言った。

彼は御言葉に従って、その権威を発見したのだ。
私たちも御言葉に従うことなしには、イエスの権威を知ることはできない。

God Bless You!!


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