2021年4月15日(木)の手紙

2021年4月15日(木)


『この人もアブラハムの子なのだから。』ルカによる福音書19章9節


第19章は有名なザアカイの物語で始まっている。
この物語の終わりに、「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」という言葉がある。
聖書の物語や譬え話は、話の最後に書かれていることを読めば、イエスが言おうとしておられること、また聖書の記者が語ろうとしていることを、読みとることができる。

ここで聖書が教えようとしているのは、ザアカイという一人の人を見る神の目についてである。

ザアカイは人々から嫌われ、罪人とされていた。
それは人の誤解もあったと思うが、彼にも人に理解されない性格や行いなどの人間的欠陥があり、それが彼の問題をつくり出していたとも言える。

私たちはともすると、そのような人は避けて、できるだけ平均的な人とのつきあいを求めるようになる。
しかし、イエスはザアカイを愛された。
それは彼の中に価値を見いだされたからではなく、彼もアブラハムの子であると見られたからである。

それが神の人を見る目だと思う。

つきあって何の役にも立たない、かえって損になるような人、いやな人、またどんな性格の人であっても、その中にアブラハムの子であるというものを見いだすところに、イエスが来られた意味がある。

本来はアプラハムの子であるから、すばらしい信仰生活をしていなければならないのに、そういうものを失ってしまっている人に、もう一度自分がアプラハムの子であることをわからせるために、イエスは来られたのである。

私は、人間は信頼するということがいちばんたいせつだと思っている。
人から信頼されると、私たちはそれを裏切らないように心がける。
信頼するということは、結局は勝利だと思うが、同時に非常に恐ろしいことである。

信頼を裏切る者を、なお信頼していくところに、イエスが生きられた道、語られた教えがある。
人をほんとうに立ち返らせていく力というものは、人の非を突くことではなく、その人を信頼することである。

それはあらゆる世界において言えることではないかと思う。

人事管理が今日の社会において、非常に大事なものになっている。
事業が成功するかしないかはそこに携わっている人たちが、どれだけ一生懸命仕事をしているか、能力を発揮しているかにかかってくる。
そこには信頼がなければならない。

しかしいろいろの人がおり、簡単に信頼だけしてもおられない。
そこにむずかしい面がある。

しかしザアカイという一人の失われた者が、新しい生き方にみずから進んで出ていったのは、イエスが彼を信頼されたからなのだ。

イエスは人々に対して、彼もまたアブラハムの子であり、神から愛されている者であるというまなざしで見ていかれた。
私たちもそのように、人を見ていかねばならない。

God Bless You!!


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