2021年4月13日(火)の手紙

2021年4月13日(火)


『もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度「悔い改めます」と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい。』ルカによる福音書17章4節


人間が自分の罪を具体的に知るのは、人をゆるすことによってである。
長く、また立派な信仰生活をしている人でさえ、自分に対して罪を犯した人をなかなかゆるすことができず、自分自身も苦しみ、もんもんとした生活をしていることがある。

私たちに対して人が一日に七度罪を犯した場合、それを七度悔い改めたらゆるしてやれとイエスは言われた。
この教えから、私たちがいかに人の罪をゆるすことのできない者であるかを思い知らされる。

私たちがイエスにゆるされたことを思えば、人からどんなことをされてもそれはとるに足らないものである。
しかし私たちにはイエスの十字架を感謝しながら、他方では人の罪がゆるせない弱さがあるのだ。

イエスが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためだと言われたのは、自分の罪にもだえ、自分ではどうしようもないと気づかされた者にとって、大きな喜びとなる。

罪は私たちが神の言葉に従って生きるときに、はじめて気づくものであり、自分の罪に気づくことは信仰生活にとって大事なことなのである。

ところが、イエスによって罪がゆるされたということは、大きな喜びのはずであるのに、われを忘れて随喜の涙を流すほどにはならない。
それは、自分が人に十字架についてもらわねばならぬほど大きな罪を犯しているとは気づかず、イエスの十字架が私にかかわりがあると思っていないからである。

もし十字架以外に罪のゆるしが得られないと知れば、イエスの十字架は私に重大なかかわりを持ってくる。

御言葉に従って生きるとは、それに従ったときに自分がどんなに罪深い者であるかに気づかされることである。
聖書の言葉を私への語りかけとしてまじめに聞いていくとき、私たちは自分の姿を知ることができる。

だからイエスは、私たちに自分の罪を気づかせるために、一日に七度罪を犯し、七度悔い改めますと言って帰ってくればゆるしてやりなさいと言われたのである。

使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。
彼らは、自分に罪を犯した者を憎んでもゆるすことはできない。
信仰が増したら、それができるのではなかろうかと思ったのである。

それに対してイエスは、「信仰は増すべきものではない。持つべきものである」と答えられた。
信仰は量が問題なのでなく、その質が問題なのだ。
あなたたちは信仰を持っていないのだと言っておられる。

私たちは、どんなに小さくても、ほんとうの信仰を持たなければならない。
ちょっとした利害や感情で、メッキがはげてしまう信仰の私たちに、イエスは、信仰とは神から与えられたものを、そのまま受けとめるだけだと教えられたのである。

God Bless You!!


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