2021年4月12日(月)の手紙

2021年4月12日(月)


『この不正な家令の利口なやり方をほめた。』ルカによる福音書16章8節


第16章はルカにだけ出てくる特別な譬えが書かれている。

ルカに出てくる譬えは、解釈が非常にむずかしいが、これがわかれば、イエスの譬えを理解するうえに、非常に力になることが多い。

最初に、一人の家令の問題がとり上げられている。
家令は、主人の利益を得るために財産を預けられた者である。
この家令は会計をごまかし、やがて不正が露見したので証書を書きかえ、自分が助かるようにした。

主人は「不正な家令の利口なやり方をほめた」と書いてあるが、もちろん家令の不正をほめたのではない。
その利口なやり方をほめられたので、そこに焦点を当ててこのところを読まないと、なぜイエスがこの話をされたのかわからなくなる。

たとえば私たちが今日一日生きているのは、当然のように思っているが、考えてみるとそれは大きな財産である。
もう一日生きたいと思っても、自分の思いどおりにすることはできない。
死ぬときはどんなに金を積んでも死んでいく。

それを思うと、今日一日生きていることは、大変な値なのだ。
それだけ神に与えられ、ゆるされ、守られているのだから。

その神から預けられた時間を、私たちはどのように使っているだろう。
ただ自分の気ままに使っていないか。
生命を私たちは預けてくださった主人の心にふさわしく使っているか、まず第一にそこを考えなければならない。

健康もまたそうである。
好きこのんで病気になる人はない。
長く病臥している人から見れば、健康は大きな恵みである。
行きたいところへ行き、しゃべり、食べられる。

財産もまた同じである。
それは決して私のものではない。

しかし人間は、それを神から預けられ、与えられた恵みだと思わず、自分のものと思い、正しく用いてはいないのではないか。
互いに反省しなければならないところである。

この男は、主人の前に立たねばならぬ時のために、自分の立場をフルに利用し備えた。
それが利口なやり方である。

私たちはこの財産を、時間を、健康をどのように使うかは自由である。
神の前に過ごすことも、また悪魔の道を歩むこともできる。

その自由を用いて、いまを神の前に立つ時のための備えとしていくところに、終末信仰がある。

私たちは必ず神の前に立たねばならぬ日が来るのだ。
家令が主人と棚おろしや決算をして、帳じりを合わす時が来るように。
その時のために備えること、それが私たちの信仰生活である。

God Bless You!!


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