2021年3月8日(月)の手紙

2021年3月8日(月)


『花婚の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。』マタイによる福音書25章5節


天国についての三つの教えが書かれている。
第一は、花婿を迎えに出た十人の乙女の譬えである。

ユダヤの国では、花嫁を花婿が迎えに来るが、その花婚を花嫁の友人が明かりを持って出迎える習慣があった。
再臨の時、イエスが来られることを婚礼に、またイエスを花婿に警えている。

婚礼は外からもたらされる喜びであり、自分が何かをするのではなく、だれかがしてくれたことを喜ぶものである。
世の終わり、主の再臨というものは、私自身が喜びをもたらす材料を作るというよりも、もたらされてくる喜びである。

この話で注意しなければならないのは、花婚の来るのがおそかったということである。
聖書のメッセージは、今日のように矛盾した時代が、いつまでも続くものではなく、古い時代は終わり、新しい世界が来るというものである。

神の子が絶対的権威を持って来られ、世界の終わる時に、私たちはみな神の前に立たなければならない、最後の裁きの時がある。
そのことを私たちは信じている。

だからいまはどんなに上手にこの世の生活をしていても、世の終わりの時にはすべてがあらわになる。
その時に備えて生きていくのがクリスチャンなのであるが、聖書の告げる世の終わりはおそいということが、第一の譬えで言われていることである。

おそいから居眠りをするのである。
賢い者も愚かな者も共に居眠りをするが、そこで明かりを用意している者と、していない者との違いが出てくるのだ。

明かりの用意、油の用意をするとは、注解書によっていろいろに解釈されているが、私たちはここでまず教会生活のことを思う。
緊張感を欠き、居眠りをする中にあって、私たちが絶えず御言葉を自分の心の中に蓄えて生きていくときに、私たちは主の再臨の時に、明かりをともして出ていき、主を迎えることができる。

教会は単に人間の集まりであるとか、そのほかいろいろなことを言って、教会から離れていく人がある。
確かにその人たちの批判は正しい面もある。
しかしその人たちが教会生活以上の生活をしているかというと、ほとんどの人はそうではないのではないか。
すばらしいことを計画しながら、実行できないのが人間であり、人間の弱さである。

教会生活は人間の弱さをカバーしてくれるものだと思う。
弱い私たちが、イエスが来られる日まで、あるいは死ぬまで、信仰の灯火をかろうじて持ち続けていくことは、教会を離れてはできないことだと思う。

教会が、また牧師がどんなにつまらなくても、その教会に連なり、教会生活を守っている間は、私たちはキリストの幹に連なる枝として存在できる。
信仰生活を守っていくための予備の油を持つということ、それが教会生活だと理解してよいと思う。

God Bless You!!


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