2021年3月31日(水)の手紙

2021年3月31日(水)


『荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて……。』ルカによる福音書4章2節


荒野の誘惑を考えるとき、この三つの試みは、いずれも栄光の道への誘惑であった。

石をパンに変えるのは、栄光のメシヤである。
政治権力を自分の手に握るのも、また神殿の真中において、大きな奇跡を行うのも、栄光のメシヤである。

もっと勇ましく漂々しい姿で臨んだらどうか、経済的な問題を解決する王として、また政治的な王として、人々に対して生きるしるしを行う者として臨んではどうか、そういう栄光の道を歩めというのが、悪魔のささやきであった。

悪魔は決してメシヤになることをやめさせようとしたのではなく、栄光のメシヤになれと言ったのである。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」は、苦難の僕をうたったものである。
イエスは十字架の道をたどられたかたであって、栄光の道をたどられたのではないのだ。

人間はだれでも、見映えのしない苦難の僕として生きていくことを好まない。
人が駆け集まってくるような姿でいたいと思う。
しかし、イエスは主なる神に仕えていくところに、わたしの道があるとご自分の道を選びとられた。

私たちも今日、十字架を負ってイエスに従っていく者として、神に召されている。
信仰していない人よりも、うまい汁をなめるために教会に来ているのではない。
私たちの感謝は、神の御旨に従っているところにこそ起きてくるものであることを覚えねばならない。

私たちがその道を選ぶとき、それが神の道であるか、悪魔の道であるかということを基準にするよりも、自分にとって結局どれが栄光の道かということによって選ぶようになりやすい。

しかし、大事なことは、苦しみの道を選ぶことでもなく、また栄光の道を選ぶということでもない。
神の御旨に従い、神にのみ仕えていくことである。

神に従っていくことが栄光の道であるなら、その道を歩んでいけばよい。
たとえそれが苦難の道であっても、それを喜んで選びとっていくところに私たちの生き方がある。

栄光の道を選び、自分が主権者の座に座ろうとしやすい私たちにとって、荒野の試みは、イエスにとって必
要であった以上に、私たちにとっても必要である。

God Bless You!!


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