2021年3月28日(日)
『わたしたちの間に成就された出来事を…。』ルカによる福音書1章1節
イエス・キリストとは、旧約聖書の預言の成就、神の出来事である。
そこにイエスの誕生の大きな意味がある。
神が私たち人間の世界に働きかけられたというのは、実に驚くべきことである。
そのことは、ザカリヤの記事にも示されている。
彼が香をたいているとき、御使いがあらわれた。
私たちは神に仕え、神に喜ばれることをするのが、宗教であると思いやすい。
しかし、ここでは神がザカリヤに御使いを送られた。
神のために人間が何かをするのではなく、神のほうから近づいてこられたのだ。
聖書が私たちに訴えている出来事とはそれである。
どうして神を喜ばせていくかということではなくて、神が私たちのほうへどのようにして近づかれ、何をされたかに目を留めていく。
それがキリスト教である。
ヨハネの父ザカリヤと、その母エリサベツは、「ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた」人である。
旧約の思想では、正しい人は神から祝福を受ける。
たとえば、子どもがたくさん生まれるとか、事業が繁栄するとかいうことを、神の祝福のしるしと見ていた。
ところが神の前に正しいことをしていたザカリヤたちには、子どもがなかった。
それは理解できないことであった。
ザカリヤは、「神よ、どうして私たちをお見捨てになるのですか」と祈ったであろう。
またエリサベツは、「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」と言った。
彼らは、自分たちが神からのろわれたように思っていたのである。
神の前に正しく歩んできたのに、それにふさわしい現実がやってこない。
ほんとうの苦しみは、苦しむべき原因がわからないことである。
神に忠実に生きていけばいくほど、いくら励んでも自分の現実がそれにふさわしくならないというもだえ、苦しみがある。
私たちはその現実を前にして、神に「どうしてですか」と祈る。
しかし、それは神を自分の秤ではかろうとしているのだ。
私が理解し、納得できたら信じようという生き方である。
そこでは神ではなく自分が主人になっているのだ。
私たちの信仰の基盤は、いつも、私のような者を神が心にかけてくださったということを知ることにある。
「主は、今わたしを心にかけてくださって」、「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」。
キリスト教信仰は、自分が必要だから信じたのではない。
神が私たちのほうへ臨んでこられたから、信じるようになったのである。
神が私のような者を心にかけてくださった、そのことが私たちの信仰の始まりであることを、いつもはっきりさせておかなければならない。
God Bless You!!
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