2021年3月27日(土)の手紙

2021年3月27日(土)


『石はすでにころがしてあった。』マルコによる福音書16章4節


16章はイエスの復活の記事である。

イエスは金曜日の夕方近く十字架からおろされ、あたふたと墓におさめられた。
安息日は夕方から始まり、イエスに香油を塗ろうと思っていた女たちも、外出できずにいた。

「さて、安息日が終ったので」というのは、土曜日が終わったということであり、マグダラのマリヤらは、安息日の始まる前の、夕方のわずかの時間に香料を買いに行き、安息日の明ける日曜日の朝早くイエスの墓に行った。
このことから彼女たちがどれほどイエスを慕い、時を惜しんで励んだかがわかる。

ただ、彼女たちとイエスとの間には非常に大きな石がおかれていた。
その石が取り除かれなければ、彼女たちは先へは進めなかった。

しかし彼女たちは決してくじけず、とらわれず、イエスの墓に行ったのである。
そして、「石はすでにころがしてあった」という神の栄光の業を拝することができたのである。

信仰生活では、「石はすでにころがしてあった」という、神の私たちの生活への介入に出会わねばならない。
よくイエスに出会ったと言う人がいるが、それはイエスが自分の生活に入り込んでこられるということである。

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。
だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。

私たちが扉を開いてイエスを迎えなければ、石がころがしてあったことは経験できない。
その経験がなくては、信仰はいつも借り物であり、何の役にも立たず、ただ表面的なものにしかすぎない。

パウロが私の福音と言っているが、福音が、聞くだけ、教えられただけに留まるのではなく、私が生かされている福音と言えるためには、この女たちがしたように、自分の可能性にのみ留まらないで、神に信頼していくことこそが大事である。
そのとき、私たちは自分の生活の中で、「石はすでにころがしてあった」という、神の介入の業の目撃者となるのである。

God Bless You!!


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