2021年3月25日(木)の手紙

2021年3月25日(木)


『まさか、わたしてはないでしょう。』マルコによる福音書14章19節


14章から15章は、いよいよイエスの捕縛、裁判、十字架、死が書かれているところである。
イエスがどのようにして十字架につかれたかが詳しく記されているが、私たちはそれを意味深く受け取るべきである。

神が私たちのために御子をこの世に遣わし、私たちの罪の贖いとして十字架において、救いの業をなしとげてくださった。
すなわち、キリストの十字架の事実によって、神を知らなかった私たちも、はっきりと神を知ることができるようにされたのである。

そういう意味で、イエスの最期は、私たちの信仰の立ち所である。

18節にある、「あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」という言葉は重要である。

弟子たちは心配して「まさか、わたしではないでしょう」と言った。
しかし、みな心配したということは、みなそれぞれが裏切ろうとする可能性があったということである。

私たちはイエスを裏切り、不真実に生きる信仰の堕落の危険性を互いに持っていることを忘れてはならない。
私だけは大丈夫だと思うのはいちばん危険である。
恵まれておれば、それだけ危険は大きいということを忘れてはならない。

36節から有名なゲッセマネの祈りが記されている。
「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。
どうか、この杯をわたしから取りのけてください」。

ここに私たちの祈りの模範がある。
私たちはだれに祈るかをまずはっきりさせなければならない。

私たちは天の父に祈る。
それは「あなたにはできないことはありません」という信頼なしには生まれてこない。
この信頼が祈りの基盤である。

次にイエスは「しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と言われた。
この「しかし」の祈りはキリスト教にしかない。
神がよしとなさることをしてください、私はそれを神から与えられたものとして感謝して受け、従います、という神への信頼である。

なんとしても私の病気をなおしてくださいと祈るのもおかしいが、反面、神に期待もしないで、いっさいは神の御旨であるというのも祈りではない。
神には何でもできるという深い信頼を持って、私たちは大胆に自分の求めと、同時にその御旨に従うことを神に申し上げるべきである。

God Bless You!!


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