2021年3月21日(日)の手紙

2021年3月21日(日)


『だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ……。』マルコによる福音書10章15節


13節から16節までは、幼子の記事である。

手をおいてもらいたいとイエスのところへ幼子たちが連れてこられた。
しかしイエスが疲れておられると推し量ってか、弟子たちはそれをたしなめた。

それに対してイエスは非常に憤られ、弟子たちを戒め、「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」と言われた。

このことを通して、なにか幼子を神格化する向きもあるが、純真な幼子といえども非常に身勝手な面もあり、素直な反面、頑固なところもある。
それは、だれしもが持っている、みにくい面を備えた人間の姿そのものでもあるのだ。

ここで言う幼子とは、決してただ素直な、罪なき者のことではない。
たしか幼児教育実践家のペスタロッチの言葉であったか、乳飲み子という言葉には、飲み込むこと、受け入れることに、特徴があるという。

すなわちまず受け入れる者という点にこそ、イエスが幼子を引き合いに出されたゆえんがあると思う。
神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることはできない。

私たちの信仰を考えるとき、入ることができるなら受け入れようという態度があるように思う。
神の国に入り、もしそこがよかったなら、それを受け入れようという態度である。
それに対して、イエスは受け入れることによって入ることができるのだと言われるのだ。

イエスは、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」と言われた。
私たちは目の前にある、飢えるという問題が解決すれば、この人は命のパンであると信じるが、イエスはまず信じなければ、わたしがパンであることがわからないと言われるのだ。

イエスが特別に強調されていることは、幼子のように素直になることというよりも、信仰は受け入れ、信じることこそが先であり、そののちに神の国に入ることができるという点なのである。

God Bless You!!


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