2021年3月20日(土)
『信じます。不信仰なわたしを、お助けください。』マルコによる福音書9章24節
14節からは、霊につかれた少年を中心にいろいろのことが書かれている。
弟子たちはその病気の原因について論じてはいたが、何もすることができなかった。
無力な弟子たちと、そのようすを見物する群衆に対して、イエスは非常に慨嘆された。
私たちにも、自分は何もしようとしないで、現実に神が何か不思議な業を示してくだされば信じていこうとの思いがあるのではないか。
イエスは「神の国とその義とを求めなさい」とか、「狭い門から入りなさい」とあるように、「なさい」と言われる。
見物席でただ見ているだけではだめで、そこからおりてきなさいということである。
神の言葉に聞き従わなければ、神の御業を拝することはできない。
新約という言葉、すなわち新しい約束、契約とは、双方が誠実にこれを履行することによって成り立つ。
神は真実な方であり、それに対して私たちが誠実にこたえていかなければ契約は成立しない。
そういう意味で、私たちが神に対して誠実に生きることが信仰生活である。
誠実とは、完全に生きるということではない。
むしろ、自分は、神によらず、十字架の贖いなしには生きていけないことを知り、神と相対し、憐れみを求めていくことである。
12節から14節で「わたしどもをあわれんでお助けください」と懇願する父親に、「もしできれば、と言うのか。
信ずる者には、どんな事でもできる」とイエスは厳しく迫る。
その言葉に、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」と父親は答える。
父は息子の病のいやしを願っていたが、その前に、自分自身の不信仰が正されなければならなかった。
問題の根源は、自分にあることに気づいたのである。
この不信仰な私を、助け、信仰を持って生きていけるようにしてくださいと願うことこそが、神に対して誠実に生きるということである。
イエスは、悪霊を追い出すことを弟子たちの訓練のひとつにしておられる。
議論は、人間が考え、本を読み、研究すればできる。
しかし、霊の問題は、神から、イエスから受けなければ解決することはできない。
聖霊を受けなくても議論はできるし、キリスト教信者にもなれるだろう。
しかし、人間の中に巣くう悪霊、それを追い出す力は、神から受けなければならない。
この力を神からいただくという面が、今日の時代には非常に少なく、こうした神秘的な体験を軽んじる結果となっているのではないだろうか。
そこにペンテコステの今日的意味があると思う。
イエスは、「このたぐいは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことはできない」と言われたが、祈りによらなければとは、神から受けることなしにはということである。
霊の世界は、肉の世界によってはどうすることもできないのである。
God Bless You!!
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