2021年3月2日(火)
『神が合わせられたものを、人は離してはならない。』マタイによる福音書19章6節
最初に離婚の問題が出てくる。
3節に、「何かの理由で、夫がその妻を出すのは、さしつかえないでしょうか」とある。
何かの理由でというのは、姦淫以外の理由でということである。
申命記第24章に、恥ずべきことがあったときは離婚してもよいというようなことが書いてある。
その恥ずべきことというのを、不品行、姦淫と解する人と、女としての務めができないときと解する人とがあった。
恥ずべきことをどう解釈するかについて、その難題をイエスのところに持ってきたのである。
イエスは、結婚の本義は、神によって、ひとりの男とひとりの女が一つに合わせられるものであると語られた。
私は結婚する人に対して、「お互いによく知り合って決意したのであろうが、相手にはすばらしい面も欠点もあろう。
その悪い面をも自分で引き受けるのが結婚である。
良いところも悪いところも共に引き受ける。
結婚する前の借金を自分が背負うことに、結婚というものの意味がある。
相手の欠点を自分にとっていちばんふさわしいものとして、自分に与えてくださったと受けとっていくところに結婚の本義があり、神の前で結婚式をすることの意味がある」と話している。
二人の男女の共同生活がいかかにむずかしいかということは、二千年前から議論されていることでもわかる。
科学や経済は発達したが、人間の内部の問題は、少しも進歩発展していない。
人と人との間のことには、大きな努力を払っていかねばならないのだ。
モーセが、妻を出すときは離緑状を渡せと定めたのは、人の心がかたくななためであって、便宜上そのようにしたのだとイエスは言われた。
結婚した以上、しんぼうしなければいけない。
結婚しなかったほうがよかったということのないようにしよう。
自分本位に、自分が楽しむために結婚生活をしていくと、現実ではまったく反することに出会うことがあるのだから。
God Bless You!!
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