2021年3月19日(金)の手紙

2021年3月19日(金)


『まだ悟らないのか。』マルコによる福音書8章21節


1節からは、パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよと言われたところである。

パンの持ち合わせがひとつしかなかったことからいろいろと議論がされているが、イエスはそれらの人たちに5つのパンを、また7つのパンを分けたとき、拾い集めたパンくずは幾つのかごになったかと問われた。

この人たちは、それが12かご、また7かごであったと知識では理解していた。
しかしその知識は、いまひとつしかパンがないという現実とは何のかかわりもなかった。

そんな彼らにイエスは「まだ悟らないのか」と言われたが、悟るとは、ただイエスが言われたことをいろいろと知っているということではない。
イエスのなされたことと、いまの私との関係をはっきりさせることである。

いま、ひとつしかパンがないという現実の中におりながら、そこにイエスが共にいてくださるがゆえに、希望を持つことができるということである。

何日か前に、7つのパンを4000人で食べ、残りが7つのかごになったときには、弟子たちもそこで、それを食べたはずである。
しかし次の瞬間パンがひとつになったとき、このイエスの事実が弟子たちにとっては、単なる教理や物語にすぎなくなってしまい、もはや何の力にもならなくなっていた。

もっと現実的に言うなら、あるとき私たちが「これは神の恵みだ」という体験をしたとしても、そのきのうの経験は、きょうの問題と何のかかわりも持っていない。
ちょうどイスラエルの人たちがマナを日ごとに集めていかねばならなかったように、マナは、その日その日に与えられていくものであり、蓄えられるものではないのだ。

知識はきょう、懸命に勉強しておけば蓄えられるものであるが、信仰は、きょうの具体的な生活の中で、イエスが共におられるという事実の上に与えられていくものである。

そういう意味で、私たちは、日ごとに神から養いを受け、イエスを仰ぐことこそが大事なのである。

God Bless You!!


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