2021年3月17日(水)
『パンは幾つあるか。見てきなさい。』マルコによる福音書6章38節
14節から29節までには、バプテスマのヨハネの死の記事がある。
ヘロデは自分のいちばん痛いところをつき、反対するヨハネを、正しく聖なる人であると知って、恐れ、保護を加えた。
ヘロデヤの手前、ヨハネを監獄に入れはしたが、一方彼を保護したとはどういうことか。
ヘロデは、ヨハネを正しく聖なる人と認めながら、自分の師としては迎えられない。
それは自分が、肉の生活を捨てきれないからである。
つまりヘロデヤとの関係を断ちきれず、それでいてヨハネの真理についての教えも聞きたいというのが、彼の生活であったからだ。
「おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである」とあるが、私たちは二つの中の一つを選び取っていかなければならない。
私はヘロデのことを読みながら、ヘロデが自分であると思う。
神に信頼することは、他のものに依り頼むことをやめることである。
偶像の祭壇も、真の神の祭壇もあるというのでは、神を信じていることにはならない。
次に、パンの奇跡であるが、ここでもやはり信頼ということが書かれている。
この記事は他の福音書にもあるが、マルコだけに出てくる言葉に、「パンは幾つあるか。見てきなさい」というものがある。
私は、神は無から有を生じさせる方であるから、この奇跡を行うのに五つのパンは必要ではなかったと思う反面、やはり必要であるとも思う。
イエスは、その御業を行うとき、必ず私たちの何かを求められる。
たとえば、カナの婚礼のとき、水をぶどう酒に変えられたイエスは、水がめに水をいっぱい入れなさいと言われた。
またラザロをよみがえらせるとき、「石を取りのけなさい」と、そして「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと言ったではないか」と言われた。
これは私たちの信仰の鍵だと思う。
私たちは、かめに水を満たすことなく、石を取りのはけることなく、神の栄光を見ようとする。
しかし、かめに水を満たすことが、石を取りのけることこそが信仰なのである。
ある書物に、パンが五つとは、だいたい13人分ほどの食料であったと書かれていた。
どうしてそうなるのかわからないが、13人といえば、イエスとその弟子たちの数である。
自分たちの持ち分のパン、自分に与えられたパンをイエスにささげていくことによって、祝福が伴い、その祝福が伴うことによって、神の栄光を拝することができるのである。
God Bless You!!
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