2021年3月13日(土)の手紙

2021年3月13日(土)


『子よ、あなたの罪はゆるされた。』マルコによる福音書2章5節


1節から12節まで、中風の人がイエスによっていやされた記事である。

この話は、非常に詳しく記されているが、そこにある深い意味に注目したい。
それは罪と、その罪のゆるしということであり、これこそが重要な主題なのである。

中風は現代においても、完全治療が難しい病のひとつである。
今日のように医学が進み、リハビリテーションの設備がととのっていてもなお、すべての人が社会復帰するのは並大抵のことではない。

ましていまから二千年も前、中風になることは、非常につらく悲しく、苦しいことであっただろう。

私たち自身も、肉体に故障があると、早くなおしたい、元気になりたいと思うものだ。
けれども、それが罪に関しては、すなわち自分が罪から清められたい、ゆるされたいということについては、どれだけ真剣に考えているだろうか。

肉体のことについては、ずいぶん一生懸命になるが、魂の問題となると、実に冷淡、無関心、不熱心なのではないだろうか。

しかしイエスは人間にとっていちばんたいせつなのは、まず罪がゆるされ、神の前に義とされることであり、神と自分の関係が正しくなっていくとき、肉体の問題も自然と解決していくと言われるのだ。

ところが私たちは、その逆、すなわち肉体がいやされたら魂もいやされ、心も豊かになっていくと思い、まず肉体や物の解決を求めていくのである。

イエスが中風の者にまず「子よ、あなたの罪はゆるされた」と宣言されたのは、人間にとって何よりも罪のゆるしこそがいちばん大事なことであるからだ。
神にゆるされ、神に対して何の恐れも持たず、「天の父なる神よ」と告白できる状態となることが大事なのである。

私たちの罪は、人からでなく、神からゆるされなければならない。
たとえ人から罪をゆるされたとしても、神の前に罪が覚えられておれば、ゆるされたことにはならない。
イエスの言う「あなたの罪はゆるされた」は、イエスの側からの一方的な宣言であり、そこには、イエス・キリストの十字架の贖いがあってこその言葉なのである。

それは、人間の言う言葉ではない。
人間がそんなことを言えば、それは神をけがすことにほかならない。

同様にイエスが、一人息子を失い悲しむ人のところへ行き、「泣かないでいなさい」と言った言葉も、仮に私たちが言うならば、それは何の力もなく、否それどころか残酷な言葉となってしまうだろう。

これもまた死に打ち勝たれた復活の主にしてはじめて言える言葉なのである。
十字架が私たちの罪の贖いであることを、そして復活こそが喜びであることを知る者となりたいものである。

God Bless You!!


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