2021年3月10日(水)の手紙

2021年3月10日(水)


『イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し……。』マタイによる福音書27章3節


第27章はイエスが十字架につけられる記事である。

3節から10節までは、イスカリオテのユダのことが書かれてあるが、彼は自分のしたことがどんなに恐ろしいことであったかがわかり、そこからのがれたいと思って、金をもどしに行った。

しかし問題はそこではなかったのだ。

盗むということでも、物が問題であれば、盗んだものを返せばそれでよいではないかという考えで、少しも良心の呵責など感じないだろう。
しかし盗みとは、盗もうという思いが問題なのである。
その思いとは、神に対する罪ということだと思う。

以前、有名な大学を出た人が金庫破りをした。
つかまったとき、金を返せばいいだろうとうそぶいたそうであるが、盗むという思いは、神に対するものであるから消すことはできない。
そこに、ゆるされるということがなかったら、私たちはどうすることもできない。

ユダがしまったと思って30デナリを返せばそれでよいかというとそうではない。
ユダは、自分のことは自分で始末するがよい、と言われた。
祭司長らでは始末することができなかった。
人ではゆるすことができないのである。

たとえ人がゆるしても、相手の罪はなくならない。
そこに罪のほんとうの恐ろしさがある。

ここで救えられるもうひとつのことは、聖書の一人一人の人間の歴史にはあまり関心がないということである。
ユダもそうであるが、どのようにして弟子になったのか、どんな死に方をしたのか、マタイによる福音書と使徒行伝では違っていて、どちらがほんとうなのかわからない。

ヨセフやマリヤ、またパウロにしてもペテロにしても、どのようにして死んだのか聖書は関心がない。
聖書の関心事は、神の召しにその人がどれだけこたえたかということである。
人間は神に召されることにおいてはじめて生きる意味があるからである。

もう一つ聖書は、だれがその人を支配したかを問題にする。
悪霊につかれたような人はいかに悲劇であり、無意味な人生であるか。
神に支配された人はいかに跳び上がるような喜びに満ちているか。
支配者が替わることによってまったく変わってくるのである。

だから、ユダがどのような死に方をしたかには興味はない。
大事なことは、罪というものは金を返したからといって解決できるものではないということである。
そしてそれがイエスの十字架の前に記されているところに意味がある。

ユダは絶望状態にあるわけだが、いったい、だれがユダと自分が違うと言えるだろうか。
私たちは絶望状態にあっても、イエス・キリストの十字来を仰ぐことができる。
それが、この記事の意味するところであることを覚えたい。

God Bless You!!


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