2021年3月1日(月)
『七たびを七十倍するまでに……。』マタイの福音書18章22節
イエスは、七たびを七十倍するまでにゆるしなさいと言われた。
それは490回まではゆるして、それ以後は仕返ししてもよいというのではなく、どこまでもゆるしていくということである。
これは、自分がどこまでもゆるされている者だということを忘れるなということである。
自分がゆるされた存在であるということを忘れるところから、人をゆるさないという行為が出てくるのである。
あの一万タラントの話も、現実には起きてこないことと思って聞き流すが、ほんとうにあれほどの借金がゆるされたらうれしいし、人もゆるしていこうということになるとと思う。
イエスが幼子のようになりなさいと言われたのは、自分が神からゆるされなければ生きていくことのできない小さい存在であり、滅んでいくべき存在であることを知りなさいということである。
神が自分のために大事なひとり子をくださったということに対して、自分も最も大事なものをささげていったときにその教えが事実になってくるのである。
自分の事実となるためには、それにこたえていく具体的な生活をしていかねばならないのだ。
献金などもそうであるが、なぜ献金するのかと聞かれたとき、費用がいるからと考えるのはまちがいである。
献金は、会費やカンパ、分担金ではない。
教会で、「これだけ要りますから、ささげてください」と言うのはまちがいである。
これだけの予算になりましたから、みなさん、ささげてくださいとは言いやすいが、予算のために私たちは献金をささげていくのではない。
私たちの教会への献金は、もっと奥深い意味を持っていると思う。
それは、イエスが私のために死んでくださったということに対する神への応答でなければならない。
そういう信仰の筋が、教会の運営やなにかになってくるとぼやけてしまう。
だから教会はいつまでたっても信仰の生きた証しがなされないのであると思う。
私たちがささげている献金が、自分の身を痛めるほどのものかどうか考えてみると、痛まない程度にというような便宜主義で、してはいないだろうか。
神がイエスをこの世に送り、ご自分の手で十字架にかけるということは、痛まない程度などというものではない。
大事なことは、私たちがイエスの十字架に、神の愛に、事実をもって応答することである。
そこに教会生活があると思う。
God Bless You!!
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