2021年2月23日(火)
『宮よりも大いなる者がここにいる。』マタイによる福音書12章6節
聖書の中に律法があるが、律法とは人間が神の前に正しく生きるためにどのようなことをしなければならないか、神の祝福をいただくためにはどういう生活をしていかねばならないか、その道筋を記したものである。
したがってイスラエルの人たちは、律法を守るということに一生懸命であった。
今日の私たちが考え及ばないこと、あるいは考えても理解できないようなことまでを、こっけいなと思われるくらいにまで厳格に守った。
それは、自分がなんとしても神の前に正しい者になりたい、また、ならなければならないという願い、信仰が彼らにあったからである。
信仰に熱心な人とは、律法を行うことに熱心な人のことを言っていたのである。
ところがイエスはそういうものを逆転させたかたである。
そこに福音の世界、イエスがもたらされた世界の姿がある。
それは、律法とは対照的で、言うならば、もはや人間は神の前に正しくなろうとする必要がなくなったという世界である。
なぜなら、神は私たちすべての者の罪をゆるしてくださったからである。
すべての人がゆるされた世界の中での事柄が、新しい世界、新しい倫理であり、それは当時の古い世界の人々には理解できなかった。
イエスの新しい世界は、古い世界から見れば非常に過激なものであり、破壊的な印象さえ与えるほど極端なものに思われた。
「イエスはその人に、『手を伸にしなさい』と言われた。
そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった」。
私たちとこの人の信仰の違いは、「そこで手を伸ばすと」ということである。
手が不自由であるとは、手を伸ばしなさいと言われても伸びないことである。
だから私たちは伸びないということに執着してしまう。
いつも常識的になり、この世と妥協してしまう。
宗教は何も非常識がよいというものではないが、周りをどのような常識が支配していても、人にはできないが、神にはできるという信仰に立たなければ、神の栄光を拝することはできない。
神の言葉には私を救う力があり、無から有を生じ、死人を生かし、そのかたが来られたときには、いまの世界がどんなであろうとも、そのところに光が来るという信仰に立って生きるときに、その人の手が伸びるという神の栄光を見ることができる。
私たちはいつも「できません」というところにとどまっているから、いつまでたっても神はだるまのように、手も足もないただの飾り物になってしまう。
私たちは飾り物を求めて信仰しているのではない。
私たちは具体的な生活の中で栄光を見ていかねばならない。
それは、イエスの言葉にしっかりと信頼して生きることである。
たとえ私たちの周囲がどんな状態であろうとも、神の言葉に望みをおいて、しっかりと生きることである。
God Bless You!!
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